山本功児氏が死去 64歳、早過ぎる…

 王貞治助監督に一本足打法を指導される山本氏(右)=1981年6月3日、多摩川グラウンド
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 巨人、ロッテでプレーし、ロッテで監督を務めた山本功児(やまもと・こうじ)氏が23日午後、肝臓がんのため、北九州市内の自宅で死去した。息子の武白志内野手(18)が育成選手として所属するDeNAが発表した。64歳。大阪府出身。葬儀・告別式などの日程は未定。現役時代の通算成績は1217試合で打率・277、64本塁打、369打点。オールスターには2度出場した。

 山本氏は兵庫・三田学園高から法大に進み、本田技研鈴鹿(現ホンダ鈴鹿)を経て1976年にドラフト5位で巨人入りし、第43代の4番を務めた。84年にはロッテに移籍し一塁に定着すると打率・301を記録し、翌年も・293。この2年間はダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)にも選ばれた。

 88年限りで現役を引退し、89年からはロッテで打撃コーチや2軍監督などを歴任し、99~2003年は監督を務めた。打撃指導に定評があり、ロッテの福浦ら多くの主力を育てた。巨人でも1、2軍でコーチを務めた。

 熱い男だった。口癖は「若いときはとにかくバットを振るしかないんだ」。とことん選手に付き合う熱血コーチとして打者育成の手腕が高く評価された。ロッテ監督としては5年間で通算勝率・479と優勝争いに絡むことがなかったが、退任2年後の2005年、育てた主力がバレンタイン監督の下で日本一を達成した。

 01年のパ・リーグ首位打者、福浦は入団時に山本氏が2軍打撃コーチで、投手から野手への転向を勧められた。2軍監督だった山本氏に送り出されて1軍デビューし、1軍で監督となった恩師の下で首位打者になった。「今の自分があるのは山本さんのおかげ。恩人です。野球人生の最後まで見届けてほしかったのですが、寂しいです」と話した。

 ドラフト7位から主力に成長したまな弟子を引き合いに「せっかく福浦というお手本がいるんだから、みんな見習ってほしい」と話したように、監督時代の山本氏はガッツを表に出さない若手に厳しかった。負けが込み「もっと悔しがらないと。悔しければ、もっと努力しようと思うんだ」と話したこともあった。審判員に詰め寄ることもたびたびで、ファンはその熱い姿に声援を送った。

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