アリVS猪木の仕掛け人が明かす「腕折り」を自重した猪木の思い『世界の黄金の腕は折れない』
ボクシング元ヘビー級世界王者の故ムハマド・アリ(米国)と新日本プロレスの燃える闘魂・アントニオ猪木が日本武道館で激突した「格闘技世界一決定戦」から今年で45年。世紀の一戦をプロモートした伝説の興行師・康芳夫(84)は、よろず~ニュースの取材に対し、試合中に猪木勝利の可能性があったものの、それを自重した理由について、舞台裏で本人から聞いた思いを証言した。さらに、アリの魂を継承したボクサーとして、東京五輪ボクシング女子フェザー級金メダリストの入江聖奈(日体大)に注目した。(文中敬称略)
アリと猪木の異種格闘技戦は一朝一夕に生まれたわけではない。康はまず、日本でアジア初となるアリのボクシング公式試合を実現すべく、1970年頃から交渉し、さらに深く接近するためにアリと同じ宗教「ブラック・ムスリム」に入信。72年4月1日、ノンタイトル戦ながら、日本武道館でアリVSマック・フォスターの世界ヘビー級15回戦を実現させた。
康は東大卒業後、政界進出前の作家・石原慎太郎の紹介で、「呼び屋の風雲児」として脚光を浴びていたプロモーター・神彰(じん・あきら)の会社に入り、62年から興行の世界で活躍。富士スピードウェイでの「日本インディ」開催、米ジャズサックス奏者ソニー・ロリンズ、英歌手トム・ジョーンズの来日公演など「王道」的な仕事の一つとしてアリの日本でのボクシングマッチを72年に実現したが、74年に「虚業家宣言」をして方向転換。「国際ネッシー探検隊」や「類人猿オリバー君来日」といった型破りの企画を連発し、その流れの中にアリVS猪木戦はあった。
76年6月26日、米国への中継もあり、日本時間で土曜の正午前にゴング。NET(現テレビ朝日)系で午後1時からの2時間枠でディレイ放送された。アリは立ち、猪木はリングに寝た状態でスキを見ては滑り込むようにキックを繰り出した。15ラウンドが終了して判定はドロー。「世紀の凡戦」と酷評されたが、オンタイムでテレビ観戦した記者はヒリヒリしたリアルな緊張感が忘れられない。プロレス技が禁止されるなど多くの制約の中で、猪木の戦法は必然だった。後の総合格闘技において「猪木アリ状態」という戦法として認知されている。
康は、米国で社会的地位の低かったプロレス復権にかけた猪木の思いを代弁した。
「猪木君から『アリと戦いたい』という純粋な思いを伝えられて企画はスタートした。それ以前から、僕は猪木君と一緒にアメリカでプロレスを見るためフィラデルフィアなどに行ったが、現地では『サーカス』や『アクロバット』扱いで、リングサイドは2ドルくらいの低料金。その現実を受け止めた猪木君は『何とかしたい』と本気で思った。それを『アリに勝つこと』で証明したいと。ボクシングは厳密なルールの確立されたプロスポーツそのもの。そのボクシングにプロレスラーとして挑みたいと。だが、アリ側はこの試合を『冗談』だと思っていた。僕は、猪木君の試合のビデオを送り、それを見た彼らはやっと猪木君の実力と本気に気付いた。それで、彼らはルールで縛ってきた。プロレスとボクシングがルールなしで戦ったら圧倒的にプロレスが有利ですから」
一瞬、見せ場はあった。第6ラウンド、猪木はアリの足をすくって倒したが、反則の肘打ちで寝技は解かれて試合再開。それ以降、大きな動きはなかった。
「猪木君は一瞬、アリの腕を取ったのだが、彼は腕を放した。そこで腕をへし折れば勝っていたのに…。猪木君は僕にこう言いましたよ。『世界の黄金の腕は折れない』と」。康は、そう証言した。
アリの腕は守られた。猪木はテレビ映えする派手な技をルール上の制約で繰り出せなかったが、後に「アリキック」と称される蹴りによって足にダメージを与えており、アリは帰国後に入院している。その後、アリは5年現役を続けて81年に引退。16年に74歳で死去した。
時は流れ、康は新たな才能に熱視線を送る。「今年の流行語大賞の候補になった『カエル愛』の入江選手に注目している。その実力に加え、彼女はアリの大ファンとのこと。極東で初めてアリの試合を開催したプロモーターとして、こんなに喜ばしい事はない」。入江にアリの姿を重ねた。
「入江さんには恐れ入った。アリの言葉『チョウのように舞い、ハチのように刺す』をもじって、大のカエル・フリークを自称する彼女は『カエルのように飛び、ハチのように刺す』と言い換えた。素晴らしい。ぜひ、入江さんと対談したいと熱望しています」。康の願いがかなえば、YouTubeという新たな場がリングになりそうだ。
(デイリースポーツ/よろず~ニュース・北村 泰介)