大河ドラマでも話題「倶利伽羅峠の戦い」木曽義仲はなぜ勝利できた?歴史学者が語る重要ポイント
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でトレンド入りした「倶利伽羅峠」の戦いについて、なぜ木曽義仲軍は勝利したのかを中心に、述べていきます。 倶利伽羅峠の戦いというのは、平安時代末期の寿永二年(1183)5月に、石川県と富山県の国境にある砺波山て起きた合戦です。戦ったのは、木曽義仲の軍勢と、平維盛の軍勢。木曽義仲は源氏ですから、この倶利伽羅峠の合戦も、いわゆる源平合戦の一つです。
なぜ、倶利伽羅峠の合戦は勃発したのか。その源を探れば、治承四年(1180)に、木曽義仲が、信濃国で、挙兵したことに突き当たります。後白河法皇の第三皇子・以仁王の平家追討の命令に呼応し、義仲も兵を挙げたのです。 挙兵した義仲は、平家方の城助職の大軍を横田河原(長野市)の合戦で破るなど、勢いを強め、その勢力を北陸道にも広めていきました。義仲が関東・東海方面に進出しなかったのは、鎌倉の源頼朝とぶつかる事を懸念したからだと推測されます。
木曽義仲という反乱軍の勢力拡大を懸念した平家は、平維盛を大将とする追討軍を北陸に派遣。一説によると、数十万という大軍だったようですが、おそらく、その数は誇張で、実際はもっと少なかったと思われます。 平家と源氏とを比べると、平家の方が戦に弱いイメージがあるかもしれませんが、平家は戦に負け続けた訳ではありません。倶利伽羅峠の戦いの直前、4月に今の福井県で行われた火打城の戦いでは、平家軍が、北陸の在地豪族の軍勢に勝利しています。北陸にもまた、反平家の活動が活発化していたのです。
では、平家はどのように城を落としたのか。火打城は川を塞き止めて作った人工の湖に囲まれていました。そのため平家側は城に攻め込むことがなかなかできませんでした。そんな中、城に籠もっていた平泉寺長吏斉明という人物が、平家に内通。更に斉明は、柵を切れと人造湖の破壊の仕方を教えたのです。平家は、その情報を元に湖を決壊させて城に攻め入り、ついに火打城を落としたのでした。
越前・加賀での前哨戦を経て、5月11日、俱利伽羅峠で両軍は、一大決戦のときを迎えます。平家が陣を敷いた場所は「四方は岩壁。搦手(からめて、背後)からは攻めてこれまい」(『平家物語』)と思うような場所でした。最初は小競り合いが続きますが、夜に入ると、木曽義仲軍の本格的な攻撃が開始されます。木曽軍は、背後と前方から平家軍に奇襲をかけたのです。
つまり、木曽軍は、密かに軍勢を平家軍の背後に回りこませており、これが、木曽軍勝利、平家軍敗北の要因でした。夜間、突然の奇襲攻撃を受けた平家軍は、慌てふためき、瞬く間に崩れていきます。しかし、退路は木曽軍が押さえていましたので、平家軍は敵がいない方へ逃れますが、そこは、倶利伽羅峠の断崖でした。平家軍は、馬人もろとも谷底に落ちてしまい、多くの将兵が亡くなったといいます。 都の貴族・九条兼実の日記『玉葉』は、この倶利伽羅峠の戦いを「官軍(平家軍)の先鋒が勝ちに乗じ、越中国に入った。木曽義仲と源行家および他の源氏らと戦う。官軍は敗れ、過半の兵が死んだ」と淡々と記しています。平家軍の損害が大きかった事が分かります。
ちなみに、倶利伽羅峠の戦いでは、木曽軍が、約500頭の牛の角に松明をつけて平家軍に突進させたというエピソードがありますが、これは『源平盛衰記』という軍記物に載る逸話であり、創作されたものと考えられます。中国の戦国時代、斉の将軍・田単が、火牛の計で燕軍を破った故事をもとにしたようですね。 平家の将兵が谷底に転落した谷は、地獄谷と呼ばれています。川は血で染まり、死体から出た膿が下流に流れた事から、谷川は膿川と呼ばれるようになったそうです。
倶利伽羅峠の古戦場跡は、地元では有名な心霊スポットとして知られています。夜になると武士の幽霊が出てくると言われています。亡くなった将兵を追悼するためなら良いですが、面白半分、遊び半分で行く事はお薦めしません。
(歴史学者・濱田 浩一郎)