「鎌倉殿の13人」上総広常と北条義時 実は深い関係ではなかった 広常の死は逆に「幸運」!?
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第15回は「足固めの儀式」。 今回、とうとう上総広常が殺害されました。源頼朝はなぜ広常を殺害したのか。後の話になりますが、頼朝が上洛し、後白河法皇と対面した時に、その理由を明かしています。ちなみに、『愚管抄』という書物にそのことが書いてあるのですが、それによると頼朝は次のように法皇に語ります。
「上総広常という者は東国で勢力あるものでした。自分が挙兵し、朝敵(平家)を討とうとした頃は、広常を召して、彼も功績を立てていました。が、広常は、どうして頼朝は朝廷のことのみを思うのか。関東のことに目を向けることこそ肝要などといい、謀反心のある者でしたので、このような者を家臣にしていては、自分の幸運まで失うと考え、広常を殺したのです」と。関東重視の広常。京都・朝廷を重視する頼朝。その考えの差が、頼朝が広常を殺す理由だったというのです。
頼朝は梶原景時に広常殺害を命じています。景時と広常が双六をしている時、突然、景時は盤を乗り越え、広常の首を掻き切って殺したそうです。確かに、広常は、頼朝が富士川の戦い(1180年10月)に勝利した後も、すぐに京都に向かおうという頼朝を制止し、関東にとどまらせました。 また『吾妻鏡』によると、大兵力を持つ広常は、傲慢・無礼な振る舞いが目立ったようです。
頼朝が三浦を訪問した時、広常は出迎えるのですが、その時、事件が起こります。広常の部下50人は、馬から降り、砂の上に平伏したのですが、広常は轡(くつわ)を緩めて、軽く馬上でお辞儀をしたのみ。その時、三浦義連が馬から降りるよう、広常に命じましたが、広常は「公私共に三代の間、いまだその礼を為さず」と、馬から降りて、頼朝に下馬の礼をとることを拒否したのです。
また同じ日(1181年6月19日)、三浦の屋敷で、頼朝を交えての宴会が始まります。酒が進むにつれて御家人たちも酔ってきたのでしょう、岡崎義実という武士が、頼朝が着けている水干(服)を欲しいと言い出すのです。水干はすぐに義実に与えられ、喜んだ義実はすぐにそれを身につける。するとそれを見た広常が「そのような高貴な人の衣服は、私が拝領すべきだ。岡崎義實のような年寄りには向いていない」と言い放つのです。
広常は頼朝が義実に水干を与えたことを妬んでこのようなことを言ったようですが。 その発言を聞いて、義実も言い返します。「広常にも武功はあろうが、この義実は頼朝様の旗揚げの最初から参加しているのだ。広常の手柄とは比べものにもならない」と。お互い、更にヒートアップし、色々と言い合いになり、掴み合い・斬り合いの喧嘩が始まろうとしていました。しかし、頼朝はそれを見ても無言。仲裁しようとはしませんでした。これはそう簡単に両者を宥めることはできまいと、頼朝が諦めたからのようです。
そこに割って入ったのが、三浦義連。義連はなんと最初に岡崎義実を叱ったのでした。「頼朝様をお迎えしての宴席で、このような振る舞いをするとは、ボケてしまったのか」と。続いて広常にも「広常殿の行動も理屈に合わず。文句があるのならば後日にして下さい。今、頼朝様の宴会を邪魔することはあり得ない」と注意したのでした。 それで二人とも文句の言い合いを止め、刃傷沙汰になることはありませんでした。
その事があり、三浦義連は頼朝に気に入られたようです。三浦義連の機転と度胸は確かに凄いですが、頼朝様も武家の棟梁なら、ちょっとは何とか言っても良いのではと思うのは、私だけでしょうか。それとも 頼朝は、両方ともに文句を言って、両者から嫌われることを恐れたのでしょうか。泰然自若(物事に動じず)と構えていた方が、かえって良かったのか。私にはなかなか頼朝の心理は分かりません。
さて、小栗旬さんが演じる北条義時と佐藤浩市さんが演じる広常の関係について。両者にいかなる関係があったのかについては、残念ながら全く分かりません。ドラマでは、北条義時は広常の死に涙していましたが、史実を見ても、そのような深い関係は両者になく、涙するということはなかったと思います。その後の歴史の流れを考えると、逆に大豪族(ライバル)が一人消えてくれて「幸運」くらいに北条氏は感じていた可能性も高いかと感じています。佐藤浩市さんが好演した広常を偲びつつ、話を終えたいと思います。
(歴史学者・濱田 浩一郎)