つげ義春の長男「会員になると年金を…」日本芸術院などの秘話が続々
「ねじ式」「ゲンセンカン主人」「紅い花」などで知られる漫画家・つげ義春さん(84)をテーマにしたトークイベント「つげ義春さんの近況と実績 編集者、ファン、家族の視点」が14日、東京・国立市のギャラリービブリオで開催され、一人息子でマネージャー役を務めることもある正助さん(46)が父の実像を語った。青林堂時代に「ねじ式」などの担当編集を務めた高野慎三さん、親交のある漫画家・おんちみどりさんと思い出話に花を咲かせた。
今年3月、日本芸術院の新会員に選出され、話題になったつげ義春さん。正助さんは「芸術院のことは父も僕もよく知らなかったのですが、突然話が来て、2日くらいで受けるかを決めなくてはならず、受けるしかないなと思いました。結局のところ、会員になると年金をいただけるので、父の場合は年金が欲しかったのでは。生活が大変ですから」と来場者を笑わせた。2017年の日本漫画家協会贈賞式はジャケットを用意しながら欠席。2020年に特別栄誉賞に輝いた仏アングルーム漫画祭では現地の授賞式に参加したが「僕が説得して無理やり連れて行ったようなものです。観光もせずに5日間で行って帰ってきただけ。西洋への関心がないようで別にフランスに行ったからといって、父は何とも思わなかったようです。食事はカロリーが高いものがダメで、サンドイッチばかりでした。石畳が多かったので腰と足が痛い、と相当疲れたようです」と、独特の感性を持つ父の様子を語った。
子供の頃を振り返ると、テレビゲーム好きだった父の姿が浮かぶ。小学4年生時、クラスの中でも遅く購入を許されたファミリーコンピューター。名作アクションゲーム「スーパーマリオブラザーズ」を挙げ「僕より父の方がハマっちゃいました。その後、(続編の)『スーパーマリオ2』をやるためにディスクシステムを買って、難易度は高いのですがクリアしていました。『ボンバーマン』にもハマって、こんな面白いゲームはない、と言っていましたね。一番好きなゲームは『倉庫番』で、アイテムを使わず自力で全面クリアしていました。僕が頼んだわけではないのに、面白そうだ、と突然『メトロイド』を買ってきたこともありました。意外な父の姿でした」と思い出を語った。
絵本作家の母・藤原マキさんと家族3人で度々旅行に出掛けた。「小学生の頃は家族旅行だと思っていましたが、父にとっては仕事のネタを探していたようです。確かに普通のホテルではなく、どうしてウチはボロっちい民宿や商人宿に泊まるのか謎でした。父は普通のホテルより、面白いことが起こりそうな宿を選んでいて、確かに大人になると変な宿の方が印象に残っています」。トイレの水では流れず、壁に掛けている水鉄砲風器具の引き金を引いて水を発射して押し流さなくてはならない商人宿、行方不明になった「石」の捜索協力を依頼する文書が客室に置かれた宿が記憶に残っている。「水は苦手でひなたぼっこが好きで…と書いていて、良く分からなかったですね」と“性格”まで記されていたという。
1987年を最後に、漫画の新作発表がないつげ義春さん。正助さんは1995年頃、小学館のビッグコミックから熱心な連載依頼を受けていたことを挙げ「父は断り切れず、じゃあやろうか、という方向になっていました。しかしその後、母が病気になり、闘病生活が始まり、その話はなくなりました。母のことがなければ連載していた可能性はあったと思います」と語った。高野さんも同じ頃、石の捜索依頼が置かれた宿から触発された新作案を聞かされていた。行方不明になった石の兄弟と、石の父が登場する物語で「14ページの構想だったかな。ラストが思いつかず完成しなかった」と回想。また、99年に藤原さんが死去した後に別の構想もあった。「立石に住んでいた頃の事実を元にしていて、商店街の肉屋さんの5人家族に不幸が続き、全員が亡くなるという話でした。つげさんによるとほぼ完成しているが、絵コンテは描いておらず、長い話で発表する雑誌が決まっていない、と言っていたのかな。父親が最後に亡くなった後、5人全員が救われるという話でした」と語った。
おんちさんは1997年に、尊敬するつげさんから新作漫画の感想を直接伝えられたエピソードを披露。「喫茶店ですごく面白いと褒めてくれました。そして『もうこれより面白いものは描けませんよ』と言われたのが、すごいショックで、呪いの言葉のようでした」と苦笑いで披露し、会場の笑いを誘っていた。
トークイベントは「ガロ」編集者だった高野慎三氏が青林堂を退社して北冬書房を立ち上げて以降、50年間の活動を振り返る「北冬書房半世紀展 孤高のマンガ表現の軌跡」の企画。同展は今月24日まで開催中。この模様は、元ガロ編集長の山中潤氏が主宰するユーチューブチャンネルJunsTVで、後日配信される。
(よろず~ニュース・山本 鋼平)