源頼朝の最後の直系子孫・竹御所 悲劇の早世でなければ鎌倉幕府は違った歴史になっていた!?
源頼朝の最後の直系子孫・竹御所が非業の死を遂げていなければ、鎌倉幕府は違ったものになっていたかもしれない。
源氏の棟梁(とうりょう)が鎌倉幕府の将軍職を務めたのは3代実朝までである。その実朝も兄・頼家の子・公暁に暗殺され、源氏将軍は断絶した。その後、将軍職は有力貴族である摂家、そして親王へと引き次がれていく。
だが、その源氏棟梁の血を引いた将軍が、5代で復活する可能性があった。鎌倉幕府の4代将軍は藤原頼経という人物である。その正妻が2代将軍・頼家の末っ子である竹御所だった。
2代将軍の頼家は、実弟・実朝を推す北条一族との権力闘争に敗れ、将軍職を追放されたとされる。その後、北条一族によって伊豆の修善寺に押し込められ、最期は23歳の若さで殺害された。頼家には頼朝と八重の間に生まれた千鶴丸を始め、男兄弟が3人、女姉妹が2人いたが、実子がいない実朝と僧になった貞暁以外は早世している。源氏の棟梁の血を引くのは頼家の5人の子供たちだけになっていた。
だが、頼家の長男である一幡は北条義時の手勢に殺され、三男の栄実は自害。四男の禅暁も殺害されている。実朝を殺害した貞暁を処刑されたため、残ったのは娘の竹御所だけだった。源氏棟梁の唯一の生き残りの竹御所の結婚相手に選ばれたのが、4代将軍となった藤原頼経だった。竹御所29歳、頼経13歳という年の差カップルで、まさに政略結婚のにおいがプンプンする。
ところが、夫婦仲は決して悪くなかったらしい。嫁いだ4年後には懐妊したと伝わっている。この時、竹御所は33歳。もし、男の子が生まれてくれば当然、5代将軍となるのは間違いなかっただろう。だが、平均寿命が短い当時では珍しい高年齢出産である。難産の末、男の子を死産。そして竹御所もこの世を去ったのである。これにより、源頼朝の直系の子孫は死に絶えた。
竹御所は頼朝の直系の孫だが、一説には母が朝日将軍・木曽義仲の娘であるともいわれている。また、尼将軍と呼ばれた北条政子にもかわいがられ、後継者とも目された大物だった。
竹御所の墓は、頼朝の乳母を務めた一族も眠る日蓮(にちれん)宗の「妙本寺」にある。JR鎌倉駅から徒歩で15分。かつて「比企谷(ひきがやつ)」と呼ばれた場所を訪れたが、もし、彼女が産んだ男の子と共に生きていれば、その後の歴史は変わっていたかもしれない。
(デイリースポーツ・今野 良彦)