弟子が語る「チャンバラトリオ伝説」ハリセンの考案者は?旅先で弟子200人が辞めた重労働とは?
2015年に解散した「チャンバラトリオ」という上方(かみがた)演芸史に残るグループを覚えているだろうか。「トリオ」とはいえ4人組だった時代が長く、半世紀以上にわたる活動の中、剣劇に「ハリセン」で頭をはたくネタを取り入れて人気を博した。ハリセンとは、厚手の紙を蛇腹状に折ってグリップ部分をガムテープなどで固定した扇子状の小道具。そのハリセンを作っていた弟子が、なべおさみ一座特別公演「吹けば飛ぶよな男だが」に出演しているという。四国で開催されている同公演で、父との共演を果たした芸人・なべやかんが、徳島、高知に続く、ラストの愛媛公演(25日、26日・内子座)を前に、「チャンバラトリオ伝説」を弟子から聞いた。
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吉本興業110周年感謝祭 なべおさみ一座特別公演「吹けば飛ぶよな男だが」が四国で行われていて愛媛公演でラストとなる。吉本興業所属の父・おさみと吉本新喜劇メンバーに加わり生島企画室所属のなべやかんが参加だ。最初はどうなる事かと思ったが、初めから楽しくやらせていただいている。メンバーの中にベテラン役者の青野敏行さんがいて、青野さんはチャンバラトリオの弟子だ。芝居の合間に当時の事を色々と聞かせてくれた。
チャンバラトリオはリーダーの山根師匠、頭(かしら)と呼ばれていた南方師匠、伊吹師匠、そして出たり入ったりの結城師匠でチャンバラコントを行っていた。(後に志茂山師匠やリーダーの息子さんが加わる)
青野さんが弟子になったのは40年くらい前だ。漫才師の場合、弟子が運ぶのはスーツくらいだが、チャンバラトリオは着物と三度笠と刀を入れたケース(ゴルフバック)を運ぶので重労働だった。そのため、旅先で逃げ出す弟子が多く、200人辞めたと言われている。
青野さんの仕事は荷物運びだけではない。コントで一番大切なハリセン作りもやっていた。
「ハリセンは神戸製紙会社特注の厚紙を使っていて、NGKの近くに文房具屋がありましてね、そこでチャンバラのハリセンの紙くださいって言うと出してくれたんです。それを2枚張り合わせて作るんですよ。ハリセンの考案者は頭ですわ」
当時の作り方を身振り手振りで教えてくれる。
「できあがったら、たたく面を少し内側に丸めるようにしとかんと。一度それを忘れてえらい目にあいましたわ。コントのラストで伊吹師匠がハリセンでしばかれるんですが、その日に限ってリーダーがしばかれましてね、顔が切れたんですよ。丸めとかんと切れるんですわ」
青野さんは舞台袖に行き「すみませんでした」と謝るが、それより早く「アホ~」と言って蹴り飛ばされたそうだ。
「皆さんからは山根の事だけやっとけって言われました。一番イラチなんで」
そんな山根師匠からは「南方師匠のチャンバラを見なさい」と言われていて、太刀さばきは南方師匠が一番だったそうだ。
「結城師匠が抜けた時、立ち回りで加わる事もありました。上岡龍太郎さんのお芝居に出た時は太刀が南方師匠に似てるって言われましたわ」
チャンバラトリオのオリジナルメンバーはいないが、あの芸を伝承できる青野さんがいる。いつか青野さん率いるチャンバラトリオを結成してもらいたい。そして、青野さんが時代劇で暴れる姿も観たい。
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【チャンバラトリオの歴史(敬称略)】
1963年 山根伸介、南方英二、伊吹太郎のトリオで結成。
68年 南方が病気休養で結城哲也が加入。南方復帰で4人編成に。
76年 「上方漫才大賞」大賞、「上方お笑い大賞」金賞など受賞。
94年 伊吹、結城が脱退。志茂山高也、前田竹千代が加入して4人を維持。
2008年 前田死去。
10年 南方死去。
15年 山根が5月に解散発表。最後のメンバーは志茂山との2人。山根は肝臓がんを公表し、11月に死去。
21年 ゆうき(結城)死去。
(コラムニスト・なべやかん)