『鎌倉殿』源頼家と比企能員が結びついた“真相” 北条政子の悲しみの様にも感動 識者が語る
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第26回「悲しむ前に」では、ついに源頼朝が死去しました。病床にある頼朝を甲斐甲斐しく世話をする妻・北条政子(小池栄子)。頼朝が亡くなった時の政子の悲しみの様は、胸を打つものがありました。
鎌倉時代後期の歴史書『吾妻鏡』には、頼朝死去の様は描かれてはおらず、政子の様子を窺うことはできません。しかし、政子は娘(三幡)が亡くなった時に嘆き悲しんだと、同書にありますので、夫・頼朝の死も悲しんだはずです。
さて、鎌倉幕府二代将軍となる源頼家は、頼朝と政子の長男として、1182年に生まれました。政子が頼家を産んだのは、鎌倉の比企能員の邸でした。頼朝と比企氏は、頼朝の乳母・比企尼を紐帯として深い関係を築いてきましたが、政子の頼家の出産場所はそのことを示しているでしょう。
それとともに、後年の頼家と比企氏の深い結び付きを思うと、頼家が比企氏の邸で生まれたということは、印象深いものがあります。 頼家の乳母には、比企尼の次女が選ばれています。梶原景時の妻も頼家の乳母になったようですが、比企氏の女性から三人の乳母を出していますので、頼朝は頼家を比企氏と密着させたかったようです。
頼家と乳母との関係を見ても分かりますように、彼の後見人は、比企能員と梶原景時でした。頼家の母は、北条政子。であるのに、なぜか、頼朝は後継者に目される我が子・頼家を北条氏と密着させようとはしなかったように思われるのです。
その一方で、次男の実朝(後の三代将軍)が1192年に生まれた時などは、その乳母を阿波局に選んでいます。阿波局は、北条時政の娘です。北条政子の妹でした。 つまり、北条氏の女性です。頼朝は次男の実朝は、北条氏に結び付けようとした。頼家は比企氏、実朝は北条氏。ある意味、バランスをとっていると言えます。
我が子をどちらか一方の家に 独占されても、その家が権力を牛耳ることになり、とんでもないことになる。また、そうなると、片方の家の不満が溜まり、紛争が勃発するかもしれない。頼朝はそう考えて、頼家は比企氏、実朝は北条氏に付けるようにしたと思うのです。それはそれで、強かで巧みな「戦略」だと思います。
しかし、頼朝死後の歴史を見る時、そのことが、北条氏と比企氏の対立を表面化させ、悲劇へと繋がっているようにもまた感じるのです。頼家は、若狭局という比企能員の娘を妻に迎え、彼女は一幡という頼家の子を産んでいます。このこともまた、北条氏の頼家と比企氏への警戒心を深めたでしょう。
ちなみに、頼家は、曾我事件が起こった1193年の富士野の巻き狩りに参加しています。この巻き狩りで、頼家は鹿を仕留めます。喜んだ頼朝は、鎌倉の政子に頼家の快挙を知らせますが、政子は「武将の嫡男なら当然のこと」と使者を追い返したそうです。
これは『吾妻鏡』に載る逸話です。 本当に政子がこのような発言をしたか否かは不明です。頼家を貶めるため『吾妻鏡』が政子の言葉を捏造したのではとの見解もあります。1199年1月、頼朝は亡くなり、「生まれながらの鎌倉殿」である頼家の治世がスタートするのです。
(歴史学者・濱田 浩一郎)