名刀にまつわる怖い話 手にした戦国武将たちの「目」に次々と災い 『信長公記』に残された怪異

 戦国三英傑の一人は織田信長です。その信長の一代記というべき書物が『信長公記』。同書は、信長に仕えた太田牛一が記したものですが、その中に祟りに関する不気味な話が記載されています。それは、一腰の「名刀」にまつわる、次のような不気味な話です。

 天文16年(1547)、尾張国の織田信秀(信長の父)と、美濃国の斎藤道三は対立し、戦を繰り広げていました。信秀は、軍勢を率いて美濃に乱入。斎藤氏の居城・稲葉山城下の村々まで押し寄せ、焼き払ってしまいます。織田軍の勝利かと思いきや、織田の軍勢が引き上げる最中に、斎藤軍が急襲。織田軍のなかで50名ほどが討ち取られてしまったのでした。その中には、千秋紀伊守季光も含まれていました。

 季光は、熱田社の大宮司。彼は、平安時代末の武将・藤原景清が所持していた名刀「あざ丸」を差していました。景清は平家方の武将として転戦、最後には源頼朝に降伏するも、断食して死んだという悲劇的最期を遂げていました。景清は盲目の侍大将と伝わります。

 この刀を斎藤方の陰山掃部助が入手します。その後、斎藤方は、大垣城まで織田勢掃討のため進出。陰山も「あざ丸」を差して、それに同行していました。陣所の床几に腰かける陰山。すると、城内から矢が飛んできたかと思うと、それが陰山の左目に突き刺さったのです。想像するだけで痛そうですが、陰山が左目に刺さった矢を引き抜くと、更に悲劇が襲います。今度は、右目に矢が刺さり、右目を潰されてしまったのです。

 その後、この「あざ丸」という刀は、織田家臣・丹羽長秀が持つことになります。するとこの長秀の眼にも異常が!何と、長秀は眼病を患ってしまったのでした。この刀を所持する者は、必ず目を患うという噂があったようです。そのような曰く付きの刀、なぜ持ちたがるのか理解に苦しむ人もいるかもしれませんが、古くより伝わる名刀の魅力があったのでしょう。

 その後、さすがにこの刀は個人が持つべきものでないとなって、熱田社に奉納されたのでした。すると、長秀の眼病もすぐに良くなったとのこと。「あざ丸」は、今でも熱田神宮に所蔵されています。1980年には県指定文化財にもなっているのです。

 ちなみに、「あざ丸」の名の由来は、鎺元(はばきもと)に痣(あざ)のような黒い地鉄があり、景清の顔にあった痣が刀身に移ったのだとの言い伝えによります。熱田神宮に奉納されてからは「あざ丸の祟り」という話は聞きませんので、完全に浄化されたのでしょう。決して個人が所持してはいけない「妖刀」のお話でした。

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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