『鎌倉殿』源頼家の子・公暁 「くぎょう」→「こうぎょう」になった理由 1000日参籠で願った恐ろしいこと

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第43回「資格と死角」では、修行を終えた公暁(こうぎょう)が鎌倉に帰ってきて、「鎌倉殿になりたい!」との野心を露わにします。

 公暁とは何者か、その生涯を振り返ってみましょう。ちなみに、ドラマで公暁を演じるのは、俳優の寛一郎さん。寛一郎さんの父は、俳優の佐藤浩市さんです。佐藤さんと言えば「鎌倉殿」において、大豪族・上総広常を見事に演じきったことで話題となりました。寛一郎さん演じる公暁が今後更にクローズアップされていくと思いますが、どのような展開となるのか楽しみです。

 余談となりますが、この公暁、かつては一般的に「くぎょう」と呼ばれていました。しかし、最近では「こうぎょう」と呼ばれてきていますし、ドラマのHPでもそう記されています。これは、公暁の師・公胤が当時の記録で「こういん」と呼ばれているので、「くぎょう」ではなく、公暁(こうぎょう)と呼ばれていたのではないかとする説が広まったためです。

 さて、公暁は、源頼家(幕府2代将軍。源頼朝の嫡男)を父として生まれました。正治2年(1200)の生まれです。頼朝死去の翌年に生まれたことになります。幼名は、善哉といいました。母については、諸説あり、賀茂重長の娘という説もあれば、比企能員の娘(若狭局)という説もあります。

 公暁の乳母の夫は、三浦義村です。公暁の父・頼家は、鎌倉から伊豆修善寺に追放・幽閉され、元久元年(1204)に北条氏により殺害されました。頼家の追放により、将軍の座についたのが、頼家の弟・実朝(幕府3代将軍)です。ちなみに、公暁は実朝の猶子(兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ。仮に結ぶ親子関係の子の称)となっています。

 公暁は、北条政子の意向により、尊暁(鶴岡八幡宮の2代目別当)の門弟にされます(公暁の最初の法名は頼暁でした。しかし、複雑になるので、ここでは公暁で通します)。そして、後に上洛し、園城寺(滋賀県の天台宗寺院)の公胤の門弟ともなります。

 さて、建保5年(1217)5月、鶴岡の3代目別当・定暁が死去。これにより、公暁は鶴岡の4代目別当に就任することになるのです。公暁、この時、18歳でした。定暁の死がこの時でなければ、後の悲劇の歴史も大きく変わったと思われます。1人の人物の死が、歴史を大きく変えることもあるのです。

 鶴岡八幡宮別当になった公暁は、神拝を行いました。別当に任命されたことを源氏の氏神に感謝し、拝礼したのです。神拝を行った公暁は、1千日の参籠(寺院や神社などに一定期間籠り、祈願すること)を始めたといいます(鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』)。1千日というと、約3年です。3年もの間、何を祈願したのか。

 当時、3代将軍・実朝には子はいませんでした。後継将軍は不在という状態だったのです。公暁は、自分も将軍(鎌倉殿)になる資格はあると考え、実朝の死を願っていたのではないでしょうか。つまり、調伏(呪いにより、人を呪い殺そうと)していたと思うのです。公暁の恐ろしい願いは、その後、現実のものとなります。

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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