アニメ化決定「女神のカフェテラス」ヒロイン・月島流星 “哲学芸人”が思想哲学的に考察
ラブコメのヒロインを思想哲学的に考察する。「週刊少年マガジン」(講談社)連載中の『女神のカフェテラス』(作・瀬尾公治)のアニメ化決定(来年4月スタート)に際して、早大大学院で政治哲学を専攻し、哲学をモチーフとしたネタを展開する“哲学芸人”マザー・テラサワが登場。祖母の遺産である喫茶店を継いだ主人公と、5人の女の子による共同生活とその経営模様を描く同作において、ヒロインの幕澤桜花、鶴河秋水、月島流星、小野白菊、鳳凰寺紅葉から、第1回は流星をチョイス。大衆社会分析で著名なアメリカの社会心理学者リースマン(1909-2002)の提示する議論との意外な接点が浮かび上がった。
◆社交性と献身性
月島流星(つきしま・りほ)の特筆すべき能力はその「社交性」です。主人公・粕壁隼が祖母から「カフェテラス・ファミリア」を引き継いで再開させる際の挨拶回りにも同行し、持ち前の明るさと気立て良い振る舞いを見せます。不愛想な対応に終始する隼を見事にフォローするとともに、「世話になる人に対しては誠意をもって対応するべき」と、隼の態度を手厳しく批判するのです。(1巻#4「挨拶回り」参照)
また、流星の業務への没頭ぶりも他4人のヒロインとは一線を画しています。流星は大学2年生として在学中。一般の大学生であれば就職活動に向けた準備にも気を取られるはずの折、それらの事情には脇目も振らず、カフェ運営に自己犠牲的な貢献を行うのです。それが行き過ぎ、ファミリアが夏期限定でオープンした海の家での営業中にはオーバーワークで倒れてしまう程。隼への恋愛感情から隼と小野白菊のやり取りに疑義を挟むも、瞬時の状況判断で自らの考えの誤りを修正する場面(4巻#29「花火大会」他参照)のように、流星のその才能には思わず舌を巻いてしまいます。
とかく社交性を重視し、他者への配慮に心血を注ぐ…それは現代社会のビジネスパーソン全般が体現する姿です。就職活動におけるエントリーシートの書き込み方や面接で「他者が求める己の像」を表現するための対策が求められ、社員のマナー研修に膨大な時間と予算を投入する多くの企業。それは取りも直さず、サービス提供やクライアントとの交渉での「社交術」がビジネスの成功/失敗を大きく左右するからであり、他者とのコミュニケーションに重点的配慮を行うことは、現代ビジネス社会において疑いなき常識であり、規範となっていると言えましょう。
前述のリースマンによると、ビジネス上における他者との交渉術を規範の中心に据える意識は、産業化に伴う「大衆社会」の出現と同時に萌芽したと言います。リースマンは彼の代表的著作『孤独な群衆』において、人間の社会心理的傾向を時代や場所に応じて3つの類型「伝統指向型」「内部指向型」「他人指向型」に分けています。以下、リースマンの議論にしたがって3つの類型を説明します。
①「伝統指向型」。交通手段も情報技術も未発達で魔術的支配の強い時代においては、顔を突き合わした家族や共同体の価値観が絶対的なものとなる。そして共同体によって脈々と受け継がれる「伝統」や「信仰」が善悪の規範意識を規定する。
②「内部指向型」。共同体が拡大し、領土や主権という意識が高まると「国家」が制度化する。そして国家を統治する絶対的権力者や法が規範意識を規定する。伝統指向型→他人指向形への移行期の社会において支配的となるパーソナリティだとも換言出来るだろう。
③「他人指向型」。「レーダー型人間」とも呼ばれる心理的性向。大衆社会では「大衆が支持する価値観」に従う事が絶対的規範となる。しかし大衆の中の個々人は無個性な存在だ。そこで大衆の思考を支配する「マス・メディア」が登場する。そして「流行」などその時々で良しとされる価値観がメディアを通じ喧伝され、大衆はそれに向かってなびいて行く。また伝統や法という固定的規範とは異なり、大衆の支持する価値観は時々刻々と変転する。かくして大衆社会における個人は「他者がどういう思考をしているか」「自分の考えが周りから逸脱してないか」と、常に気を張りながら生きなければならない。
■
現代社会において他者とのコミュニケーションや流行り廃りに敏感にならざるを得ないのは、それが大衆社会における処世術であるためです。月島流星はそのことを良く理解しており、故に「社交的」な振る舞いに人並み以上の執着を見せると考えられます。
同時に、リースマンは「他人指向型」パーソナリティの負の側面にも言及しています。前述通り、大衆社会ではその規範の中身は不安定で、変動を続けます。メディアの喧伝する方向へ動く粒子へと変質することを通じ、人間は個としての独立した思考を剥奪され、生きる基準を「他者」へと委ねるのです。結果、「私は他者にとって心地よい存在になり得ているのか?」という不安に駆られていきます。大衆社会に生き続ける限り、その悩みから開放される事は無く、なおかつ地縁血縁が希薄な大衆社会では、そういう悩みを吐露出来る存在も見出し難いもの。群れながら悩みを抱える孤絶された存在達…リースマンはそうした「他人指向型」のパーソナリティに囚われた大衆を指し「孤独な群衆(The Lonely Crowd)」と呼んでいるのです。
改めて月島流星について述べると、彼女が体現しているのもまた「他人指向型」パーソナリティであり、そしてそれに囚われるがゆえの悩みを抱えています。流星自身、子役タレントとして幼き頃から業界人の期待に応える環境に置かれ、社交性を至上の価値観とする規範意識を内面化する存在です。子役の仕事に没頭する事が両親の離婚に繋がったこと、周囲から「名前を聞かなくなった元子役」とレッテル張りされて来たこと等、プライベートで多くの悩みを抱えるにも関わらず、小野白菊が指摘するように流星は「自分の事を語らない」。それは「明るく社交的な自分」の像を提示することが他者への期待に応えることだと思うゆえ、「悩みを抱える自分の弱さ」を隠そうとする心象だと思われます。社交的であるほどに孤独となる・・・流星もまた「孤独な群衆」の中に生きる一人なのです。
私事になりますが、月島流星の生き様を見ていると学生時代にゼミ、サークル活動、果ては企業のインターンシップなど全てに手を抜かず社交的に振る舞い、それを喜々として語る知人女性を思い出します。当時の私は思想研究に傾きつつあり就活も放棄、半ば世捨て人の覚悟を決めた状態でした。そのため「自分の心のこだわりを検証せず世間に尻尾なんか振っちゃって。滑稽ですなあ」と冷笑的に彼女を見つめていたものです。しかし、研究に行き詰まりひょんな流れで芸人になった今、私はライブの舞台で明るく振る舞い、ライブ後の打ち上げ、バイト先でも「とかく人との繋がりが大事な業界だから」と社交に徹しています。「お前も『孤独な群衆』じゃないか!」とツッコまれるとお手上げです。しかし同時に、無自覚な形で社交に没頭する事と社会の構造を悟ったうえであえて社交に徹するのでは天と地ほどの差があるとも思うんですね。強がりかもしれないですが、一応、私は物事に違和感があれば相手の立場や世間など気にかけず異議申し立てをする人間です。そのため、要らない摩擦を起こし面倒な人間だと糾弾されたことも多々ありますが…。
以上を踏まえ、あえて形容すると、月島流星は「他人指向のスポットライトに踊らされる孤独なヒロイン」と言えましょう。しかし、隼や他のヒロイン4人との「ファミリア」での生活を通じ、流星も自己を語り己を晒してコミュニケーションを図る人物へと変質しつつあります。「孤独な群衆」に陥っていた流星のパーソナリティがどう変質していくのか、今後の展開を期待しています。