伝説のバンド「はっぴいえんど」と「はちみつぱい」が佐野史郎を媒介に共演 名プロデューサーが語る魅力
日本のフォーク/ロック黎明期をけん引した音楽レーベル「ベルウッド・レコード」の50周年記念コンサートが今月、東京・中野サンプラザホールで開催された。同レーベルを代表する伝説的なバンド「はっぴいえんど」と「はちみつぱい」のメンバーも出演。プロデューサーの三浦光紀氏が、よろず~ニュースの取材に対し、日本語ロックの先駆者となった両バンドの魅力を分析した。
「はっぴいえんど」は1969年、ベースの細野晴臣、ギターの大瀧詠一さん(2013年に65歳で死去)、ドラムスの松本隆、リードギター・鈴木茂の4人で結成。細野、大瀧さん、鈴木は作曲とボーカル、松本は作詞を担当。「風をあつめて」など数多くの名曲を残して73年に活動を終えたが、80年代初頭に一般層への知名度が高まったメンバーの存在から“逆算”するような形で「後追い世代」に注目された。
当時、細野は社会現象になったYMO、大瀧さんは名作アルバム「ア・ロング・バケーション」、松本は松田聖子らのヒット曲を連発する作詞家として大ブレーク。だが、70年代初め、実際に生でライブを見た人はその世代ではまれだ。どんな様子だったのだろうか…ということで、三浦氏に聞いた。
同氏は日本最初のインディーズレーベルと称される「URC」で、はっぴいえんどの代表作となるセカンドアルバム「風街ろまん」に携わり、自身が立ち上げたベルウッドでは米国で録音した3枚目のラストアルバム「HAPPY END」とベストやライブ盤、細野と大瀧さんのソロファーストアルバムを制作している。
三浦氏は「PAもちゃんとしいていない時代だったから、後ろにいる松本さんは音の返しが聞こえないんですよ。だから、いつも音が合わせずらくて、大瀧さんと細野さんは客にお尻を向けて、松本さんのドラムを見ながら演奏していました」と証言した。
また、アナログレコード盤に溝を刻む「カッティング」にまでこだわったアーティストが大瀧さんだったという。三浦氏は「大瀧さんはソロのファーストアルバム制作時に、音を最終的に決めるカッティングまで立ち会いたいということで工場にまで足を運び、塩化ビニールの配合率までリクエストしていました」と懐かしむ。
一方、「はちみつぱい」は鈴木慶一(ボーカル、ギター等)を中心に71年に結成。メンバーの入れ替わりもありながら、73年にファーストアルバム「センチメンタル通り」をベルウッドからリリースした。「塀の上で」などの名曲を残し、74年に解散。鈴木、バイオリンの武川雅寛、キーボードの岡田徹、ドラムス・かしぶち哲郎さん(13年に63歳で死去)らのメンバーに、鈴木の実弟でベースの鈴木博文らを加えて翌年にムーンライダーズを結成した。
三浦氏は「はちみつぱいを世に出したのがベルウッドの功績…と言う人もいます。その後、世の中では『ぱっぴいえんど』が脚光を浴びましたが、僕は『はちみつぱい』の方が斬新で、ライブパフォーマンスは上だと思っている。僕は『ぱっぴいえんど』の信奉者ですが、『はちみちぱい』も同様に注目されて欲しいという思いがあって、そう言わせてください。特にすごいのは鈴木兄弟による歌詞です」と力説した。
さらに、同氏は「『はちみつぱい』は東京の下町である工業地帯から生まれた。『はっぴいえんど』は山の手出身だけど、レーベルでやった音楽のバックはほぼ全てがこの2つのバンドによる演奏。慶一さんは『はっぴいえんど』のライブでサポートメンバーをしたこともある。僕から見ると同じバンドでもあるわけです」と回顧し、「『日本ポップスの巨人』は細野晴臣と大瀧詠一に、鈴木慶一も加えた3人だと僕は思っています」と明言した。
11日に開催された50周年公演は「このメンバーで一緒にやるのはこれが最後」(三浦氏)。「はっぴいえんど」から鈴木が「氷雨月のスケッチ」と「花いちもんめ」をボーカルとリードギターのソロ演奏も交えて披露すれば、「はちみつぱい」からは鈴木と武川が「塀の上で」と「煙草路地」をプレイした。
その間にゲストとして登場した俳優でミュージジャンでもある佐野史郎は、島根県の高校生だった16歳の時に岐阜・中津川での全日本フォークジャンボリー(71年)に駆け付け、ステージにかぶりついて「はっぴいえんど」に飛ばした声が実況録音盤に刻まれたというエピソードをMCで披露した。
佐野は少年時代の掛け声がレコードに残されたという「はっぴいえんど」の曲「かくれんぼ」をリードギター・茂&ピアノ・慶一の「W鈴木」をバックに熱唱した。今では名優となった佐野を媒介として、両バンドの盟友によるコラボが実現。語り継がれる「最後の一夜」となった。
(デイリースポーツ/よろず~ニュース・北村 泰介)