『鎌倉殿』後鳥羽上皇VS北条義時を決定的にした2つの“事件” 運命の「承久の乱」を識者が解説

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も残すはあと2回。最大のクライマックスである承久の乱が描かれることになります。承久3年(1221)5月、尾上松也が演じる後鳥羽上皇は、小栗旬が演じる北条義時追討の院宣(上皇・法皇の命令により院庁の役人が出す文書)を下します。3代将軍の実朝の死後(1219年)、将来の後継将軍として、九条道家の子・三寅(後の4代将軍・藤原頼経)が鎌倉に下向することになりました。ところが、三寅は1218年生まれで幼少。当然、政務を執ることはできませんので、北条政子が「尼将軍」として、後見することとなります。 が、追討の院宣が記すところによると、北条義時は、三寅が幼いことを良いことに、野心を抱き、朝廷の威光を笠に着て、しっかりした政治を行わなかったとのこと。

 よって、今後は義時の政治を停止し、全てを叡慮(天皇の御心)により決するとされたのです。院宣のポイントは、上皇は幕府を滅ぼすとは主張していないことでしょう。あくまで、義時の排除を訴えているのです。義時排除に絞ることで、加勢する御家人を増やしたいと考えたと思われます。

 また、院宣では、朝廷方に付いて武功があった者には「褒美」を与えるとあります。後鳥羽上皇は、鎌倉幕府を滅ぼすため、挙兵したとかつては考えられてきました。しかし、最近では、前述した事柄などによって、上皇は義時滅亡のみを望み、幕府を滅ぼすことまでは考えていなかったのではとの見解もあります。 とは言え、後の話(鎌倉時代末)となりますが、後醍醐天皇も北条氏追討を掲げながらも、最終的には鎌倉幕府は滅亡しています。

 よって、もし、後鳥羽上皇の挙兵が成功していたら、それと同じ結末を辿った可能性もゼロではないでしょう。それにしても、実朝が暗殺されなければ、後鳥羽挙兵という事態にはなっていなかったはずです。後鳥羽の親王が将軍として下向し、公武(朝廷と幕府)の関係は、より密接に、より安定したものとなっていたと思われます。承久の乱の遠因は、実朝暗殺に求めることができます。

 また、実朝死後に「将軍にならん」として都で挙兵し、結果的に大内裏を焼亡させた源頼茂の乱(1219年7月)。大内裏の焼亡に後鳥羽上皇は衝撃を受け、1カ月以上も病床にあったといいます。幕府内の権力闘争により、大内裏が焼けてしまったことに上皇は不満を募らせたと思われます。

 大内裏の再建も、諸国の抵抗にあい、順調に運びませんでした。幕府も再建事業に消極的だったとされます。また義時は1219年、上皇からの、摂津国の2つの荘園の地頭改補要求を拒否したこともありました。幕府をコントロールできないことに不満を持った後鳥羽上皇は、幕府を実質的に動かしている北条義時を打倒することを決意したのではないでしょうか。

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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