大河『家康』徳川家康VS今川氏真 上杉謙信との同盟もならず、落ちていく駿河今川氏
NHK大河ドラマ「どうする家康」第12回「氏真」では、徳川家康(松本潤)と今川氏真(溝端淳平)との最後の戦いが描かれました。氏真はどのようにして、武田信玄に攻められたのか?そして家康と氏真、この両者の対決はどのように展開したのでしょうか?
永禄11年(1568)12月、甲斐国の武田信玄は、駿河の今川氏真との同盟関係を破り、駿河国に侵攻します。
元来、武田氏と今川氏は、相模国小田原の後北条氏と共に、いわゆる「三国同盟」を結んでいたのですが、永禄3年(1560)に今川義元が織田信長に桶狭間で討たれて以降、国衆が今川氏から離反するなど今川領が混乱。その混乱を信玄はじっと見ていて(いつかは今川領を…)と虎視眈々と狙っていたように思います。
信玄は織田信長と永禄8年(1565)に同盟を結ぶのですが、そのことも今川と武田の距離を遠くしました。信玄の嫡男・武田義信は今川義元の娘(氏真妹)を娶っていたこともあり、父・信玄の動きに「義信派」の家臣と共に反発。信玄は義信派の家臣を粛清し、義信をも幽閉してしまうのです。(1567年、義信は病死)。
こうした信玄の行動を、今川氏真も警戒。信玄と敵対関係にあった越後国の上杉謙信と同盟を結ぼうと するのでした。しかし、氏真の上杉接近は、信玄にとっては「信玄滅亡の企て」を策しているように感じられ、駿河侵攻の「口実」とされました。そしてついに、冒頭に記した信玄の駿河侵攻となったのですが、今川氏の重臣は、武田の調略により、すぐに離反。駿府は瞬く間に武田の手中に落ちます。
氏真は、信玄の攻撃を食い止めることができず、掛川城(静岡県掛川市)に朝比奈氏を頼り、落ちていくのです。順風満帆に見えた信玄の駿河侵攻ですが、今川と縁戚にある小田原の後北条氏が、今川氏に加勢したことにより、武田軍は苦戦(今川氏真の正室は、北条氏康の娘でした)。
一時、駿河から撤退するという憂き目を見ます。さて、信玄の駿河侵攻より以前、信玄と徳川家康は「密約」を結んでいました。武田が駿河に侵攻すると後北条氏が今川支援に出てくることが予想されましたので、信玄は、自らの駿河侵攻と同時に、家康に今川領(遠江国)に攻め入ることを求め、家康もそれを受け入れたのです。
家康の遠江侵攻は、事前の調略が功を奏し、同国の国衆が続々と家康方に付き、順調に進展。ついに、家康は今川氏真が籠る掛川城を攻囲することになります。が、今川方も必死の抗戦を続けたため、すぐに落城はしませんでした。
永禄12年(1569)3月になっても、城は落ちなかったため、家康は氏真と和睦することを模索。氏真も和睦を受け入れ、同年5月、城を明け渡し、北条氏の兵と共に、落ちていくのです。大名としての駿河今川氏はこれにて滅亡します。
(歴史学者・濱田 浩一郎)