大河『家康』姉川の戦い 徳川家康が信長に強く迫った「徳川勢を一番隊に!」裏切りの雰囲気ゼロ?識者語る
NHK大河ドラマ「どうする家康」第15話は「姉川でどうする」。元亀元年(1570年)4月下旬、越前国の朝倉氏を攻めんとした織田信長は、金ヶ崎城(福井県敦賀市)を攻略するも、そこで、北近江の武将・浅井長政の裏切りを知ります。
妹婿である長政の叛逆を知った信長は当初、その情報を信じようとはしませんでしたが、度重なる「長政裏切り」の報に、挟撃されることを避けるため、ついに撤退を決意。信長が浅井の裏切りを知ったのは4月28日頃と思われます。信長は殿軍(しんがり)を家臣の木下藤吉郎(秀吉)に任せ、朽木(滋賀県高島郡)越をして、都へと逃げ帰ったのでした。ドラマでは、金ヶ崎の撤退戦はナレーションで軽く流されていましたが、それは少し残念でした。
信長の越前攻めには、徳川家康も参加していましたが、それでは、家康はどうしたのでしょうか。江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作『三河物語』によると、信長は家康に何の連絡もなく、退却していったようです。
もしこれが本当ならば、家康は内心、「一言だけでも連絡くれても良いのに」と思ったかもしれません。置いてけぼりとなった家康ですが、同書によると、秀吉に案内させて退却したようです。同書には徳川軍も殿軍を引き受けて戦ったとは書かれていません。しかし、『徳川実紀』(江戸幕府が編纂した徳川幕府の歴史書)によると、秀吉が家康の陣にやって来て「救い」を請うたとのこと。
家康はそれを快く、引き受け、敵勢を諸所で打ち破りつつ、退いていったのでした。さて、無事に都へと辿りついた信長の逆襲が始まります。信長は北近江の浅井氏を攻めるのですが、浅井氏には朝倉が援軍を派遣。一方、信長方にも家康の軍勢5千が控えていました。
そして、6月28日、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との姉川(滋賀県長浜市)の戦いが勃発するのですが『三河物語』には、合戦の前日、家康が信長に強硬に「徳川勢を一番隊に!」と迫る様が描かれています。
「いや、もう一番隊は決まっているから…二番隊を頼む」と言う信長に対して「そのようなことを仰るなら、明日の戦には加わりません。軍勢も退かせます」とまで主張する強気の家康。さすがの信長もここで家康に退かれてはまずいと思ったのでしょう。
徳川勢に一番隊を命じるのです。姉川の戦いは、激戦の末、織田・徳川軍の勝利となるのですが『三河物語』や『徳川実紀』には「今回の合戦は、家康の武威により勝つことができた」との内容の信長の賞賛を載せています。
ドラマでは、家康が姉川で、信長を裏切り、浅井長政に付こうか悩む様が描かれていましたが、史実ではそんな事はありません。家康軍は一貫して信長方として、敵軍に突撃していったのです。
(歴史学者・濱田 浩一郎)