大河『家康』迫り来る武田信玄の脅威!家康の目まぐるしい動き 流転の源三郎を襲った“悲劇” 識者語る
NHK大河ドラマ「どうする家康」第16話は「信玄を怒らせるな」です。甲斐国の武田信玄(阿部寛)の攻勢に徳川家康(松本潤)が苦慮するも、最終的には家康は信玄と戦うことを決意するとの様が描かれていました。
元亀元年(1570)、家康は慣れ親しんだ三河国の岡崎城を出て、浜松城(静岡県浜松市)を居城とします。岡崎城は、嫡男の松平信康(幼名・竹千代。母は築山殿)が守ることになりました。
当初、家康は見付城(静岡県磐田市)に移ろうとしていました。が、見付は天竜川を越えた東に位置するので、敵の攻勢があった際に支障があるのではないかという信長の意見が通り、急遽、変更。浜松城を居城とすることにしたのです。信長の胸中には、もし信玄が攻めてきた時、家康が見付にいたら、迅速な支援がしにくいとの思いがあったのでしょう。家康もそれに納得したということになります。
信玄の第1次駿河侵攻(1568年)の際、武田の別働隊(秋山虎繁の軍勢)が遠江国にまで侵攻してきたことに家康は不快感を示し、信玄に抗議しています。
信玄の第1次駿河侵攻は、小田原の後北条氏が今川に加勢したこともあり苦戦しますが、2度目の駿河侵攻(1569年12月)は順調に進み、駿河国の中部・西部を武田のものとします。こうした状況を家康は見て、いつかは信玄が遠江にも深く攻め入ってくるのではないか…と危機感を深めたと思われます。
家康は信玄に対抗するために、対策を講じるのですが、それが、越後国の上杉謙信と同盟を結ぶことでした。謙信と言えば、信玄と川中島において何度も戦を繰り広げた言わば宿敵。その上杉謙信と家康が同盟を結んだのが、元亀元年(1570)10月のこと。
上杉宛ての起請文(誓約書)のなかで、家康は「信玄と断交すること」や「信長と輝虎(謙信)が入魂(親密)になるように尽力すること」「武田と織田の縁談話が無くなるように動いていくこと」などを誓っています。
元亀2年(1571)には、武田にも大きな動きがありました。同年10月に小田原の北条氏康が亡くなったことを契機に、敵対していた武田と北条に和解の雰囲気が醸成(氏康の後継者・北条氏政の正室は信玄の娘でした)。
同年の末には、武田と北条は同盟を結びます。北条氏と上杉謙信は同盟を結んでいたのですが、これにより、破棄されます。北条との同盟が成立したことにより、信玄は後顧の憂いなく、その軍勢を西に向かわせることができるようになったのでした。
今回、家康の異父弟である久松源三郎勝俊(久松長家と家康の母・於大の方の子)が登場しました。ドラマでは、武田の捕虜となり、悲惨な目にあっていましたが、服部半蔵ら徳川の忍びに救出されるという展開でした。
では、実際はどうだったのか。
源三郎は当初、駿河・今川氏真の人質となっていましたが、今川衰退後は、武田家に送られてしまいます。しかし、元亀元年(1570)11月、家康の手引きにより、源三郎は甲斐を脱出。三河国に帰還を果たしますが、雪の中を踏破した事もあり、両足の指を凍傷で失うという悲劇に見舞われます。家康は源三郎の忠誠を讃え、一文字の刀と当麻の脇差を与えたと言われています。
(歴史学者・濱田 浩一郎)