初サシ飲みした北野武監督の素顔、深作欣二組で決死の空撮もまさかのオチ!撮影監督が明かす巨匠との現場
北野武監督の6年ぶり新作映画「首」が5月のカンヌ国際映画祭で公式上映され、今秋に予定される一般公開への期待が高まっている。その北野組の撮影監督として知られる柳島克己氏がこのほど都内でトークショーを行った。北野監督との秘話や日本映画界に足跡を残した深作欣二監督(2003年死去、享年72)の現場などからエピソードを披露した。
柳島氏は司会を務めた映画監督の山本俊輔氏とライターの佐藤洋笑氏を相手に、映画撮影監督の師匠である仙元誠三氏(20年死去、享年81)の現場などで体験した松田優作さん(1989年死去、享年40)とのやりとり、テレビシリーズ「あぶない刑事」などでの多岐にわたる逸話を披露した。
柳島氏は北野監督の全19作中、2作目の「3-4X10月」(90年)から「アウトレイジ最終章」(17年)まで16作品を撮影。逆に関わらなかった3作品とは、出会いの前だったデビュー作「その男、凶暴につき」(89年)と、映画作りの環境が変わる中で製作された最新作の「首」だが、もう1本は北野組でキャリアを積んでいた時期に当たる「HANA-BI」(98年)だった。なぜ、同作には参加しなかったのだろうか。
柳島氏は、よろず~ニュースの取材に対して「文化庁の海外派遣研修生制度に申し込んで、ロンドンで1年間、映画の研修をすることになったので、『申し訳ないですけど抜けます』と。それが『HANA-BI』でした。この作品は97年に撮影され、翌年、ベネチア国際映画祭でグランプリ(金獅子賞)を取るわけです」と経緯を説明した。自身の「英国留学」と重なったため、同作には不在だったわけだが、それにも関わらず、この作品に絡んで初めて北野監督との「サシ飲み」を体験することになったという。
「ロンドンから車でベネチアに行き、最後の表彰式までいた。僕はこの作品には携わってないから関係者ではないのですが、みんなの写真を撮ってネガごとあげました。北野さんは涙ぐんで、スタンディングオベーションがやまないんですよ。その日夜の宴会が終わって、夜の12時くらい、一言挨拶だけして帰ろうとしたら監督の部屋に通された。北野さんはブリーフと白いTシャツで『ちょっと飲もう』と言われて、2、3時間だったかな…。北野さんと飲んだのはその時が初めてで、(サシで)飲食したのはそれ1回きりです。その時、北野さんはいきなり奥さんに電話して『(グランプリ)取っちゃったよ、お小遣い上げてよ』とか、テンションが高かったことを覚えています」
このほか、北野作品には数々の裏話がある。「キッズ・リターン」(96年)は当初2時間40分バージョンだったが、興行的な理由から、急きょ編集して2時間を切るようにし(1時間48分)、そのロング版は「ネガから切っているので、もうないです」と幻になったこと。ベネチア国際映画祭で監督賞(銀獅子賞)を受賞した「座頭市」(03年)では、軽い木綿の衣装で動きの速かった往年の勝新太郎さん(97年死去、享年65)に対し、主演俳優のビートたけしは重いつむぎの衣装を着て差別化を図ったことや、雨を降らす水が足りなくなって、ため池の水を使い、北野監督に「なんだか臭い」と突っ込まれた逸話などを明かした。
深作監督の「バトル・ロワイヤル」(00年)についても強烈な思い出があるという。
「最後のシーンで、船が島から離れていく場面をヘリコプターから空撮したんですが、ドアを開けて、カメラをチューブで吊り、安全ベルトをして撮って、終わったと思って帰ってきたら、助手が『フィルムが回っていませんでした』と。ヘリから落ちそうになりそうなのをこらえて撮ったのに(笑)。撮影は真夏で、徹夜続きだったが、深作さんだけが元気でした。ロケハンでは手を引かなければ歩けないくらい体調が悪くて、僕は登山用の杖を監督に買ってあげたんですけど、途中から使わずに腰に差してましたからね。さすが、深作さん、完全に(病を)克服したと思いました。深作さんとは今でももう一回やりたいです」
そんな映画界の巨匠たちとの仕事を糧にしてきた柳島氏は1950年生まれ。古希を過ぎた今も、「決死のヘリ空撮」で示した映画魂は健在だ。今年公開予定の「カラオケ行こ!」(山下敦弘監督)、撮影中である金子修介監督の新作などでも、精力的にカメラを回している。
(デイリースポーツ/よろず~ニュース・北村 泰介)