連載中に死去した謎多き漫画家・東元さん 著名ミュージシャン、作家との交流 その足跡をたどる

 今年2月8日、芳文社「週刊漫画TIMES」の公式ツイッターで漫画家・東元(あずま・げん)さんの訃報が報告された。61歳だった。「読者の皆様へ 漫画家の東元先生が昨年12月にご病気のため逝去されました。 ご愛読いただいた皆様に感謝申し上げるとともに、謹んで東元先生のご冥福をお祈り申し上げます。週刊漫画TIMES編集部」。同誌で不定期連載されていた「かよちゃんの駄菓子屋」は未完に終わった。東さんをネットで検索すると、簡単な経歴や過去の作品は探せるが、人となりはよく分からない。大ヒット作はなくとも、長く創作活動を続けた作家に迫る意義はあると感じた。

 1980年代から90年代にかけ、シンガーソングライターとして「十人十色」「格好悪いふられ方」などのヒット曲を生み、現在はジャズピアニストとして活動する大江千里さんは、大阪・富田林高校3年生時、東元さんのクラスメートだった。

 「僕、高校時代の東は、おぼろげでしか思い出せないのですが東がクラスにいたのはしっかり記憶しています。どこかシャイでうちに秘めたイメージがありました。僕自身が高校時代、アイデンティティを模索する暗黒時代でして、シンガーソングライターを目指したにも関わらずジャズに傾倒しと、やじろべいのような青春時期で、そういう目線で全てを斜に構えて見ていたようなところがありました。だから、東のことは彼のルックスや彼が学校にいたことはしっかりと覚えているのだけれど、具体的に東と何を話したかなどは、一切靄かかって、思い出せないのです」

 2016年10月、大江さんは東元さんと再会している。自身のライブ会場を訪れた同窓会メンバーの中に、その姿があった。

 「僕がジャズになってから、大阪にライブで帰った時に富田林高校同窓生チームで聴きにきてくれたのですよね。それは覚えてます。嬉しかった。当時僕がやってた軽音を応援してくれてた仲間やバンドメンバーの元カノとか、そのころのクラスメートとか、みんな一緒に。その時にそのメンバーにいた。東はちょっと嬉しそうでちょっと恥ずかしそうな、そんな顔をして写真に収まってたように記憶してる」

 米国滞在時にネットニュースで東元さんの訃報を知った。「ものすごくショックだった。そんな気配一切なかったから。一度、Facebookにメッセージかコメントをもらったことがあって僕もすぐさま返事をして…。でもお互い自分が創造するアートに無我夢中で、それ以上の交流を再開する余裕がなかった。そんな中での“突然の訃報”でした」と振り返った。

 東元さんは2012年から、高校の同窓会に参加するようになった。同学年には元「週刊ファミ通」編集長で日本eスポーツ連合副会長の浜村弘一氏、大阪府CIO兼スマートシティ戦略部長の坪田知巳氏もいる。

 1994年に発足した同窓会で、幹事を務める向井啓司さんが東元さんを誘った。向井さんは高校卒業後、京都府立大に進み、京都工芸繊維大生だった東元さんとしばらく交流が続いていた。疎遠になっていたが「漫画家になったことは人づて知っていた」という東元さんと、2012年にFacebookを通じて交流を再開させた。

 向井さんは高校時代の東元さんを「口数は少なく存在感を強く出すタイプではなかったけれど、気がつけばグループにいて、ウルトラQ、ウルトラマンなど関心、興味のあるの話題になると喜んで話していました。漫画を描いていること、絵がうまいことは知らなかった」と話した。他の同窓会メンバーからは「当時から絵がうまかった」「よく人間観察をしていた」という声も上がった。

 東元さんは1961年1月28日、大阪市東住吉区で生まれた。本名は東元伸夫(とうもと・のぶお)という。父親の武さんは足袋の福助で商品配送の手配係の仕事をしていた。母親の早百美さんは電気部品工場でパートをしていた。3学年離れた弟・光児さんとの4人家族。南田辺小学校では、現在アニソンシンガーとして活躍する影山ヒロノブさんと同学年だった。田辺中に進学後、転居に伴い松原中に転校し、富田林高に進んだ。遺作となった「かよちゃんの駄菓子屋」は1970年代の阿倍野周辺の駄菓子屋が舞台となるが、当時あった実際の駄子屋がモデルになっているという。

 東元さんは松原中のクラスメートとも高校進学後しばらくして、同窓会を始めている。吉迫啓子さんは中学時代の東元さんを「教科書の隅にパラパラマンガを描いていました。騒がしい感じではなかったけれど、運動も勉強もできたので存在感がありました。怒った姿は見たことがないですね」と思い返し、「だから皆で同窓会に誘ったと思います」と続けた。

【次ページ】漫画家デビューまで

 東元さんは大学3年時の1981年、「月刊漫画ガロ」の新人賞に入選。その年限りで大学を中退した。大阪・八尾市で「さそり」「ワニ分署」で知られる漫画家・篠原とおるのアシスタントを務めた。2年間師事したがデビューに至らず、独立して1985年に「月刊漫画ガロ」でデビュー作「夢奏華(むそうばな)」を発表した。

 懐古的でロマンの香りが漂う絵柄が特徴で「江戸川乱歩怪奇短編集 赤い部屋」など1920年代の日本を舞台にした作品が多い。後年は戦後の女子プロ野球を描いた「なでしこナイン」、自身の少年時代の思い出を反映せた「ほな、また明日!」「かよちゃんの駄菓子屋」を発表。北方謙三の単行本カバーイラストなど、小説の表紙、挿絵も手がけた。

 独立後は八尾市から大阪・天神橋筋六丁目に仕事場を移した。30代から10年ほど、漫画家仲間が集まったソフトボールチームで汗を流した。関西で数々のテレビ番組に出演し、「月刊漫画ガロ」を中心に作品を発表していた異能漫画家ひさうちみちお氏はチームメートだった。

 ひさうち氏は「僕はヘタクソやったけど、彼はすごく上手で活躍してました。彼のことは『とんちゃん』と呼んでいて、飲み会ではノリツッコミというか、他の人のギャグにかぶせるように、ぼそっと何か言うのが実に面白かったですね。本当に楽しませてくれて、ありがとうという思いです」と悼んだ。

 仕事場を訪ねたこともあった。「彼が『ガロ』でデビューした頃、僕はあまり評価していませんでした。ところが久しぶりに彼の原稿を見た時に『これいいやないか』と声をかけたのを覚えています。彼は“ガロ系”の中ではメジャー寄りというか、メジャーな雑誌にも描いていました。彼の絵は丁寧で、電信柱の広告、ビルの看板まで省略せずに描き込み、背景の町がどのような姿でどうあるべきかを考えていた。手間がかかるので、それをメジャーな雑誌でやることに本当に驚きました」と評価した。遺作となった「かよちゃんの駄菓子屋」の担当編集者も「初めて担当させていただいた作家さんで、新人にも優しくこちらの意見にも真剣に耳を傾けてくれました。駄菓子屋が舞台ということもあり、特に背景に力を入れていたことが印象的でした。駄菓子屋に並ぶとても多くの駄菓子を妥協なく描いて下さっていました」と話した。妥協のない背景だが、写真のトレースのような強い主張ではなく、丸みを帯びた漫画らしいキャラクターと調和しているのが特徴的だ。

 そんな東元さんの口癖は「よっしゃ」だった。向井さんは「同窓会の横断幕を保管する役回りで、立候補がないのを見て『よっしゃ』と言って快く引き受けてくれました。東京から帰阪した際にFacebookで同級生に会食を呼びかけたものの、呼びかけた同級生の都合が付かなかったときには『オレが行くわ』と連絡がありました。同級生の会話をよく記憶しており、その甥や息子の近況を気にして、プロゴルファーになった同級生の親族を応援していました」と回想。吉迫さんは20代の頃、失恋相手との連絡を取りたいと東元さんに相談したところ、「よっしゃ」と言って、対面の場を設けたという。控えめながら頼りがいのある人物像が思い浮かぶ。

 漫画にも遊び心を加えた。女子プロ野球を描いた「なでしこナイン」で、主人公チームと敵チームのメンバーがスコアボードに並ぶシーン。向井さんは「審判も含めてほとんどが同窓会メンバーの名前でした。僕そっくりのキャラクターも『ほな、また明日!』に登場しています」と笑った。ソフトボールチームのメンバーも「自分の顔が漫画に載っていると嬉しかった。時々メンバーを漫画の中に登場させ、茶目っ気たっぷりに『描いたったで~。どこにおるか探してみぃ』と言って…。その号を買って感想を書いてアンケートハガキを送るようにと、営業もチャッカリしていました」と語った。「なでしこナイン」の主人公が在籍するチーム“キスリングス”は、連載開始10年以上前に活動が終了したソフトボールチームの名前。人生の節々の記憶を、愛でるように作品に反映させていた。

 「誰が言っても面白くないのに、とんちゃんが言うとなぜか笑ってしまう」という東元さんの一発ギャグ「ブー」。暗黒時代でも春先は優勝を疑わなかった阪神ファン。ソフトボールチーム内でバンドを組みベースを担当した。カラオケの十八番は「上海帰りのリル」。愛煙家でお酒はカンパリソーダを愛飲。記憶力が良く「何年前の発言とか行動とか覚えてるもんね。捏造を疑うこともあったけど(笑)」と話す仲間もいた。

 そんな東元さんを病が襲った。昨年の初夏、SNSへの投稿が滞る状況を心配した、近所の高校同窓会メンバーが様子を伺うと、体調を崩した姿があった。肺がんだった。全身に転移しており、特に脳の腫瘍が致命的だった。東元さんは2000年代に天神橋筋六丁目の仕事場を引き払い、実家で両親と3人で暮らした。父親の武さんが21年4月に亡くなってからは、母親の早百美さんと2人暮らし。同窓会はコロナ禍で19年を最後に休止中で、人との接点が減っていた。担当編集者には「ネームができない」と悩みを語っており、脳腫瘍の影響かコミュニケーションにも難が生じる状況だったという。

【次ページ】東元さんの弟の回想

 向井さんは昨年11月23日に東元さんの病室を見舞った際「会いたい奴はいるか」と尋ねると、同窓会メンバーから12人の名が挙がった。12月9日まで10人との対面が実現したが、2人は間に合わなかった。東元さんは12月12日、61歳で世を去った。

 中学、高校の同級生、ソフトボール仲間の思い出話を聞いた東元さんの弟、光児さんは「皆さんにはお世話になりました」と感謝した。ただし、家族の中で東元さんに関するエピソードは少ないという。「兄は子どもの頃、家族とほとんど話さずに、ずっと本を読むか絵を描いていました。家族仲は普通だったと思うんですけど、駄菓子屋で僕と会うと、気まずそうに他人のフリをしていたほどです。ただ、当時から絵を摸写した後、アングルを変えて描き直しているのを見て、漫画家になるんじゃないかとは思いました」と記憶をたどった。親戚づきあい、法事などの用事は全て任された。向井さん、吉迫さんには母と弟への感謝をよく話していたというが、「母と僕に面と向かって言ったことはないんですよね」と苦笑した。雑務を全て兄から押しつけられた記憶が強く、少し複雑な表情を浮かべた。

 一方で、東元さんは光児さんの娘、菜々奈さんのことはかわいがったという。光児さんは「娘が兄の相手をしてやったようなもんです」と話せば、菜々奈さんは「何でも答えてくれる優しいおじさんだった」と語った。菜々奈さんが大学時代、今宮戎神社の福娘に選ばれた際は、お気に入りの白ジャケット姿で各イベントに駆けつけた。亡くなる直前には菜々奈さんの婚約者に電話で、結婚生活の心構えなど、脳腫瘍の影響か意味が通らない箇所がありながらも、懸命に思いを伝えていたという。

 光児さんが「兄の全盛期だと思うんです」と手にしたのはオールカラー漫画誌「ア・ハ」だった。日本がバブル景気で沸く1990年から石油会社のエッソが12冊刊行した豪華仕様の漫画誌。東元さんは「モダン・ハイカラ・ナンセンス」を連載した。「カラーでデザイン性の高い絵で、兄がやりたかったことはこれだったと思います。この頃、講談社『モーニング』の編集者から連載に向けて、一緒にネームを考えましょう!と言われていたのに、『ア・ハ』に手一杯でネームを考えなかった、と話していました。僕はまず食えるようになるのが先とちがうか、と思ったんですけどね」と回想した。

 光児さんは「かよちゃんの駄菓子屋」第38話も印象的な作品に挙げる。「僕も含めて、さんざん人を漫画に出してきた兄が、初めて自分を登場させているからです」と説明した。東元さんと同じく雑誌に投稿するなど漫画家を志した時期があったが「兄を見てあきらめました」という。複雑な思いを抱えながらも、東元さんの作品を追ってきた。光児さんは後にイラストレーターとして独立。ユニクロのTシャツ、ゆうちょ銀行預金通帳のカバー、最近ではJR東日本のポスターなどを手がけ、着実に実績を重ねている。

 大ヒット作はないものの、周囲には常に個性あふれる仲間、家族がいた東元さん。経済的に不安定な漫画家を諦め、東元さんに家業を継いでもらうことを希望した交際女性もいたというが、生涯独身を貫いた。光児さんは「兄は最期まで漫画家であり続けたと思います」と言った。表情に東元さんへのねぎらい、尊敬の気持ちが浮かんだような気がした。

(よろず~ニュース・山本 鋼平)

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