大河『家康』我が子・信康殺害に織田信長は関係なかった!? 謀反を警戒した家康が決断か 識者語る
NHK大河ドラマ「どうする家康」第25話の「はるかに遠い夢」は反響が大きかったようです。織田信長(岡田准一)に呼び出された徳川家康(松本潤)が、信長から「岡崎で謀反の噂がある」として、妻・瀬名(有村架純)と嫡男・松平信康(細田佳央太)を処刑せよと暗に告げられるという悲しい回でした。家康は苦悩し、信康らを助けようとしますが、最終的に信康は自害して果てるという家康にとり、辛い展開となりました。いわゆる「信康自刃事件」の顛末が描かれたのですが、では、なぜ、信康は自害しなければならなかったのでしょうか。
『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)は、信康の正室・五徳(徳姫。信長の娘)が、信康を中傷する書状を、徳川の臣・酒井忠次に持たせて、信長に送ったことが、そもそもの要因であると書いています。十二ヶ条に及ぶ中傷の書状。信長は書状の内容を十ヶ条までいちいち忠次に確認し、間違いないことを知ると「(信康を)切腹させよと家康に伝えよ」と命じたといいます。
その事を伝えられた家康は「大敵がいる今、信長には背き難い」として、断腸の想いで、我が子・信康を切腹に追い込むのでした(1579年9月)。『三河物語』は、信康切腹の要因・責任を、徳姫と酒井忠次に帰しています。家康は信長の命令で、仕方なく、我が子を切腹させたと見るのが、同書の論調です。しかし、これは家康・信康を庇う「徳川中心史観」であるとして、疑義が呈されています。
まず、信長が家康に信康を殺せと命じたということですが、これには異説があります。家康が信長に、信康を処断することの了解を求めると、信長は家康の思うようにせよと伝えたとする史料(『当代記』)があるのです。つまり、信康を殺すか否かの最終決断は、家康が行ったというのです。では、なぜ、信康は切腹を迫られたのか。
『三河物語』は信康は素晴らしい武将だったと礼賛するばかりですが、『当代記』や『松平記』には、信康の慈悲なき所業が書かれています(例えば、僧侶の殺害等)。信康の家康に対する「逆心」の噂ありと記す史料(『安土日記』)もあります。我が子を殺害するのは、余程のことです。おそらく、信康に謀反の噂があり、それを警戒した家康が、信康の処断(殺害)を決意。信康は20歳の若さで切腹する悲劇となったのではないでしょうか。
(歴史学者・濱田 浩一郎)