大河『家康』信長は接待の粗相で明智光秀を怒っていない!? 別の理由で信長に謀反心 識者語る
NHK大河ドラマ「どうする家康」第27話は「安土城の決闘」。織田信長(岡田准一)が、安土城にて、徳川家康(松本潤)や穴山梅雪らをもてなす様が描かれました。天正10年(1582)3月、信長は家康と共に、武田勝頼を滅亡に追い込みました。その恩賞として、家康は駿河国を与えられます。家康が穴山梅雪と共に、安土の信長のもとに赴いたのは、その御礼を申し上げるためでした。
信長は家康一行がやって来るということで「心を込めて、おもてなしせよ」「街道を整備し、立派に接待せよ」ということを、途上の大名らに命じます。織田の宿老・丹羽長秀は、番場(滋賀県米原市)に仮の館を造営し、酒・肴を用意して、家康らをもてなしたと言います(『信長公記』)。天正10年5月15日、家康は番場を出立し、ついに安土に到着。家康の安土での接待役は、明智光秀(酒向芳)に命じられました。
『信長公記』には「光秀は、京都や堺において、珍しいものを用意し、とても素晴らしいもてなしをした」と記されています。そのもてなしは、5月15日から17日まで3日間続いたとのこと。光秀は、毛利攻めを敢行している羽柴秀吉の援軍として、出動することを信長から命じられます。5月17日、光秀は安土から居城の坂本城に帰り、中国地方に向けて出陣する準備にとりかかります。
さて、光秀がこの家康接待で粗相をして、信長から怒られる、または暴力を振るわれるという逸話は、ドラマにおいても何度も描かれてきました。しかし、前掲の『信長公記』には、光秀が接待準備中や接待中に、粗相をして、信長が怒ったということは一切触れられていません。
もし、光秀の粗相があったならば、少しくらいの記載があっても良いはず。それが記されていないのです。『川角太閤記』などの二次史料に光秀の「失態」と信長の激怒(宴会に提供される魚を腐らせる→信長激怒→接待役解任)が記されていますが、これは信用することはできないでしょう。
第一、信長が光秀に良からぬ感情を抱いていたならば、中国への出兵を命じることはなかったと思われます。信長は、光秀を武将として信頼していたからこそ、出陣を命じたのです。信長は光秀に対して悪感情を抱いておらず、逆に光秀は「接待粗相」とは別の理由で、信長に謀反心を持っていたと推測されます。
(歴史学者・濱田 浩一郎)