宮沢りえが熱演する『月』 風化してはいけない事件 障がい者らを起用、異例の映画制作が生み出すリアル

 映画『月』は、芥川賞作家・辺見庸さんが書いた小説を、『舟を編む』(2013年)で多数の映画賞を受賞した石井裕也監督が脚色したもの。それは実際に起きた障がい者殺傷事件をモチーフにした物語で、映画化すれば問題作として間違いなく話題になるであろう題材だ。この本に興味を持った人物は、『新聞記者』や政治的なドキュメンタリーを多く輩出し、「攻める製作会社」として知られるスターサンズの今は亡き河村光庸プロデューサーだった。

 実際の事件をダイレクトに描くのではなく、小説というワンクッションある状態での映画化であっても、記憶も新しく被害者も多い事件である分、表現や切り口もセンシティブにならざるを得ない。それでも映画として問題提起したいと承諾した石井裕也監督の覚悟が強く感じられる作品だった。

 確かに過去作『町田くんの世界』(2018年)では、困っている人を見過ごせない青年の行動から干渉しない社会へ問いかけ、最新作『愛にイナズマ』(公開中)では、真っ直ぐに向き合うことしか出来ない監督志望の主人公から人間臭さこそが人間の魅力だと伝える作風から、石井監督は「蓋をしてはいけない出来事を自分ごととして考えて生きて欲しい」という想いが今回あったのかもしれない。

 主人公は、宮沢りえ演じる作家としてスランプに陥った洋子。重度障がい者施設で働きだした彼女が目にする施設内でのイジメ。そんな中で、親しくなった同僚であるさとくんの発言がおかしいことに気付き始める。それと同じ頃、彼女にとっても自分の人生を大きく揺り動かす出来事が発生する。過去と向き合わないと未来も見えない状況の中で、同時に身近で想像を絶する恐ろしい事件が起こってしまう恐怖を、観客にこれでもかと突きつける作品だ。

 同僚のさとくんを演じるのは、ドラマや映画に引っ張りだこの磯村勇斗。11月に公開される『正欲』での演技も本作同様素晴らしいもので、間違いなくこの2作の演技で映画賞にノミネートされるはずだ。しかも今回、石井裕也監督は、見せるべきショットと見せるべきではないショットを強く意識し、視覚による直接的な残虐さを撮らない選択をしている。その理由には、ショッキングな映像による心的外傷を起こさない配慮はもちろん、本作で描こうとしたのは事件の全貌ではないからだ。まさに知人が加害者になってしまった洋子の立場から「一体、自分には何が出来るのか」と観客に考えてもらう映画体験だろう。

 更に映画制作でもう一つ注目すべきことに、実際に聾者の役を聾者の俳優・長井恵里が演じ、障がいのある方が施設利用者として出演している点だ。もちろん、虐待などのハードなシーンにおいてはプロの俳優に演じてもらう配慮がなされている。これについては、今、ハリウッドでも当事者が演じることで「映画の現場も彼らの居場所」になることや、当事者としっかり向き合う作品作り、彼らの本当の姿を伝えることにも繋がると考えられ、日本映画界でも少しずつ増え始めている。

 改めてこの物語の不気味さに目を向けると、加害者となるさとくんは、「ごく普通の人間」として映画では描かれている。だから主人公の洋子も恐怖心を抱かずに親しくなっていったのだ。そう考えるとこれは決して他人事ではない事件であり、人間の驕り高ぶった思想から起きた惨事だ。ではこの映画から自分がこの先、何を思うか。それが映画を作った真意なのだろう。これは、社会問題の根底にある「偏見と差別」を放置してはいけないという気づきを与える映画でもあった。

 では今から自分に一体、何が出来るのか。そう問われると、自分は偏見を持っていないか胸に手を当てて考えること、そして誰かの偏見を耳にしたら声を出す勇気としか、今は思い浮かばない。洋子のように他者に関心を寄せ、注意する人が増えていったら社会は変わっていくのではないか。綺麗事と言われようが、そのことを忘れずに生きて声を出していくしかないのだ。未来のためにも。

(映画コメンテイター・伊藤さとり)

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