伊集院静さん、3・11被災後にパリ移住を断っていた 早世した弟と夏目雅子さん「家族の死」と向き合う
直木賞作家の伊集院静さんが24日に肝内胆管がんのため73歳で死去した。2011年3月11日の東日本大震災では在住する仙台市で被災し、その体験と共に、1995年1月17日の阪神・淡路大震災と合わせた「2つの震災」を語る連載企画を15年2月から3月にかけてデイリースポーツ紙面で展開した。前妻で女優の夏目雅子さん(享年27)、17歳で早世した弟といった家族も含め、若くして逝った周囲の人たちへの言葉から垣間見えた伊集院さんの死生観を振り返った。
再婚した翌年に夏目さんが急性骨髄性白血病と診断され、闘病生活の末に亡くなったのは85年9月。伊集院さんは当時35歳。喪失感の中、敬愛する作家・色川武大(阿佐田哲也)さんと競輪の“旅打ち”を続け、一時は関西を拠点としたこともあった。
伊集院さんは「妻が亡くなってから、旅打ちに出た。京都には38歳まで住んだこともあって、大阪や神戸にもよく行った。友人が(神戸)三宮にいた。お世話になった作家・黒岩重吾さんが住む西宮にもお邪魔した」と語った。そうした経験もあって、95年に阪神間を襲った未曾有の大震災は他人事ではなかった。そこで暮らす人たちの「顔」が見えたからだ。被災地で被害に遭った知人らの話を聞いて回った。
そして、11年の震災で自身が被災する。山口県出身の伊集院さんは大学進学で上京して以来、東京を拠点にしたが、90年代、再々婚した妻で女優の篠ひろ子さんの実家がある仙台に移住。「(妻から)『東京であんまり飲み過ぎないで』と言われてね(笑)。いや、実のところは家内の父を介護するためだった」。被災した初日、夜空に瞬く星が「異常にきれいだったことを覚えている」という。
その上で、伊集院さんは「あの時、私の周囲でも命を落とした人がいた。仙台の自宅で庭の掃除してくれていた女性の一人娘だった」と明かした。宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)で、タンクローリーの運転手だった娘さんは車から降りたところで津波にさらわれ、約3か月後に遺体となって発見されたという。「家内が線香を上げに行った際、娘さんの母である、その女性はこう話された。『うちはまだ遺体が見つかっただけ、本当にありがたいことです。みなさんのことを思うと…』。哀しみを胸に抱きながらも全体を捉え、感謝する言葉があった」
そう回想した伊集院さんは「震災に限らず、人生の中で、親しい人の死というものをどうやって受け入れていくかということは、すごく大変でね。私の場合、特に弟と妻がそうだった」と言葉をつないだ。「弟」とは伊集院さんが大学2年の時、海で遭難して17歳で亡くなった当時高校生の弟さん。「妻」とは夏目さんだ。
「私にとって家族の死というものは自分のテーマでもあるから。死というものはある日突然やってくる。理不尽なことや不条理なことにあふれた世の中を私たちは生きていく。だからこそ、『哀しみには終わりがある』と思うようになった。いつまでも哀しみの中に浸っているうちは抜け出せない。歩き出さなきゃダメだと。そうすれば時間が何かを変えてくれる。とにかく進んでいけと。それを言い続けないと駄目なんだ」
3・11直後のこと。伊集院さんはフランス在住の友人から「パリに来なさい」と誘われたという。
「原発の映像を日本のメディアは規制したが、むこう(欧州)はもろに出したわけだから。あれは誰が見ても“大爆発”に見える。放射能に関して、ヨーロッパ人はチェルノブイリのことがあったから、非常に敏感だからね。欧州の人にとって(福島の)原発の映像は尋常ではなかった。それで『パリに来なさい』と移住を勧められたんだが…」
そう明かした伊集院さんは「それは違うだろうと。家内もそれを望まなかった」という判断で仙台にとどまった。
「東北に住む作家として、何が起こったかを克明に記す。忘れないための人間の記録として後世に残す。新聞はどうしても事実関係の正確性を重んじる文章になる。作家はより印象的な文章を書けるから、50年後、100年後、誰かが読んで役に立つだろうと思う」
伊集院さんが「震災」に抱く思いは強かった。そこには家族の「死」と、残された者がもがきながら前に進もうとする「再生」への意思が通底していた。伊集院さんと取材現場で向き合いながら、そう感じたことを思い出す。
(デイリースポーツ/よろず~ニュース・北村 泰介)