大河『家康』大坂夏の陣 豊臣家は滅亡を避けられなかったのか?拒否され続けた要求  識者が解説

 NHK大河ドラマ「どうする家康」第47話は「乱世の亡霊」。徳川方と豊臣方との新たなる戦い「大坂夏の陣」開戦までが描かれました。「大坂冬の陣」においては、慶長19年(1614)11月15日に徳川家康は、大坂城攻めのため、二条城を出立します。徳川方の諸大名を動員し、約20万もの大軍でもって、豊臣方を攻撃したのです。

 しかし、太閤秀吉が築いた大坂城は堅牢であり、そう簡単には落城しませんでした。それどころか、真田信繁(幸村)が築いた「真田丸」の砦に攻撃を仕掛けた時には、徳川方が撃退される始末。家康は力攻めを避け、大砲で天守閣などを砲撃し、一方で和睦交渉を進めます。

 和睦の条件は「本丸を除き、二の丸・三の丸は破却すること」「淀殿は人質とならず、大野治長や織田有楽から人質を出すこと」「秀頼の知行地を保障すること」「秀頼が大坂城を退去するならば、どこの国でも与えるということ」「籠城した牢人衆を咎めないこと」などであり、12月19日に同意を見ます。家康としては、豊臣家を滅亡に追い込むというよりは、秀頼が大坂城を退去して、牢人衆との関係を断ち切り、一大名として、徳川家に臣従してくれたら、それで良かったのではないでしょうか。家康にとって、秀頼は孫娘(千姫)の夫なのですから。

 ところが年が明け(1615年)3月になると、大坂方の不穏な動き(兵糧米の運搬や堀の修復。牢人数の増加)が伝えられるようになります。家康は秀頼に「大坂城を明け渡し、大和国か伊勢国辺りに国替をすること」「牢人たちを全て解雇すること」、何れかの対応を取ることを要求していました。

 しかし、大坂方は家康の要求を呑みません。家康は4月18日、二条城に入ります。そして再度、大坂方に同じ要求を突きつけますが、拒否されます。こうして、大坂夏の陣が起こるのです。この時、大坂方が家康の要求を呑んでいたら、豊臣氏は滅亡をおそらく避けれたでしょう。

 大坂方の軍勢は城外に打って出て、徳川方と激戦を展開しますが、多勢に無勢で劣勢となり、真田信繁・後藤基次・木村重成といった武勇の士が討死していきました。大坂城の落城直前、千姫は徳川方のもとに送られます。しかし、秀頼は淀殿らは自害。こうして豊臣家は滅亡したのでした。

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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