J1初V達成のヴィッセル神戸、育成に尽力した元監督の言葉 勝敗だけではないサッカーの「原点」
今年の国内プロスポーツを振り返ると、プロ野球の阪神日本一に続き、サッカーJ1・ヴィッセル神戸の初優勝など関西勢が熱かった。1995年の発足時から主に育成担当を15年間務め、その間、2度にわたってトップチームの監督を務めた加藤寛氏(72)に思いを聞いた。(文中一部敬称略)
2023年11月25日、ノエビアスタジアム神戸。ヴィッセルがクラブ創設29年目にして悲願のJ1初制覇を遂げた瞬間、加藤氏は会場で感慨に浸っていた。
「会場は満杯で、すごい応援。1993年に『神戸にプロサッカーチームをつくる市民の会』が発足してからちょうど30年。阪神タイガースの一体感というか、それに近いものがあった」
加藤氏は父が創設者の一人である神戸FCで73年からコーチを務めた。同FCが95年に発足したヴィッセルのユースとジュニアユースに移管され、自身もユース監督や育成普及部長などを歴任。少年たちと向き合った。
その一方で、2度もトップチームの監督を務めた。日本サッカー協会公認S級コーチライセンスを取得していたためだ。J昇格初年である97年のスチュワート・バクスター監督解任後と、楽天の三木谷浩史氏がオーナーとなった初年である04年のイワン・ハシェック監督解任後に就任。育成一筋の裏方が、短期の暫定措置とはいえ、Jリーグの監督になるという希有な経験を重ねた。
「(97年末に)バクスターが帰国し、天皇杯で監督がいない。監督に必要なS級ライセンスを持っている者はクラブの中で私しかいなかったので、『加藤さん、なんとかして』と言われて、『他に誰もいないのなら仕方ない』と。トップの監督になるなんて、そんな気は全然なかったから、青天のへきれきですよ。でも、当時のヴィッセルには永島昭浩と和田昌裕と石末龍治がいましてね。彼らが『加藤さん、大丈夫。僕らで頑張るから、加藤さんは見ていてくれたらいいですよ』と言ってくれて、気持ちが楽になりました」
1964年度生まれの同級生で兵庫県選抜の国体優勝時に「高校三羽烏」と称された3選手とは「彼らが中学生の時から知っていた」という間柄だった。
「ハシェックの後に就任した時は、松山(博明)君と和田君がコーチでいてくれた。2人と話し合いをしながら、僕はあまり口を出さないようにした。松山君と和田君が指揮を執ってくれて、僕は気付いたことだけを彼らに伝える。僕が選手たちに伝えたのは『スポーツって遊びだから、どんなレベルでも選手が主体になってやるものだ。楽しんでるか、おまえら?楽しんでやろうよ!』ということでした。(肩書きが監督になっても)僕の考え方は変わらない。それでも、トップチームの監督になったという事実を今、改めて考えると、すごく幸せなことだったなと。幼稚園の子どもから、おじいちゃんのシニア世代まで、生涯にわたってサッカーを楽しむことに関わり、また、レベル的にもアマチュアからプロのトップまで経験できた。こんな人間、今の日本にはちょっといない」
そんな加藤氏だけに「元監督」としてヴィッセル悲願の初Vをストレートに喜ぶ気持ちと同時に、日本のサッカー文化の原点を見直すべきという思いが交錯した。勝ち負けだけでなく、地域の人たちの生活や健康を支え、スポーツを通じて人生を楽しむというJリーグ設立の理念が発足から30年たった今も「まだ日本には根付いていない」と感じる。
「93年の『Jリーグ百年構想』は『スポーツで、もっと、幸せの街へ。』ということで始まったんですが、結局、プロ野球の球団と同じような経営の仕方に、今のJリーグはなっていますね。ドイツのクラブではトップチームが株式会社で、その下部組織は社団法人としてある。それと同じようなものを目指してJリーグは進んでいくと個人的には思っていたんですけど、そうではなかった」
そんな状況にあっても、加藤氏はヴィッセルに在籍した15年間、やれることに取り組んだ。県内にフットサルコートができる度に、そこにサッカースクールを作り、コーチの研修や普及活動を続けながら、兵庫県内にある13都市協会の技術委員会メンバーや学校とコンタクトを取ってスクール生を増やした。近年は“スター軍団”となった神戸だが、存続の危機にひんした時代を思えば隔世の感がある。
「楽天が入ってこなければ、つぶれていたかもしれませんね。いわば救世主だと思います。ただ、トップチームだけでなく、ドイツのように、市民の健康作りとして、運営母体は社団法人で、スポーツをする人自身がクラブを運営し、楽天が応援する…ということができないかな?とも、個人的には思います」
09年にヴィッセルを辞め、同年から17年まで神戸親和女子大学で女子サッカー部監督と教授を務めた。「彼女たちは僕のことをリスペクトしてくれました。関西エリアの高校を回って、選手を集める時には、ヴィッセル時代の顔と名前があるのは便利でした」。70歳を区切りに日本クラブユース連盟や神戸市サッカー協会などの公職は全て退任し、現在は兵庫県芦屋市を拠点とする女子サッカークラブチーム「阪神ユナイテッドレディース」の総監督、自身の会社が主催するシニア世代対象のサッカースクールを継続しているが、「それも、そろそろ…と考えています」という。
1月には73歳になる。「神戸市民が一体感を持って、リズム良く手を叩いて応援して…。あれは良かった。『このクラブをなくしちゃいけない』という人たちの思いがあった」。まだ栄冠の余韻が残る年の瀬、30年前の「原点」の日々が走馬灯のようによみがえった。
(デイリースポーツ/よろず~ニュース・北村 泰介)