超レア写真も!中尾彬さんが認めた自身の“映画デビュー”は伝説の吉永小百合作品! 故人知る識者が追悼
映画やテレビドラマ、バラエティー番組、CM出演などで幅広い層に知られた俳優の中尾彬さんが81歳で死去した。公私ともに接点のあった娯楽映画研究家の佐藤利明氏(60)が、よろず~ニュースの取材に対し、近隣住人だった頃の思い出、中尾さんから聞き出した映画史的にも貴重な言葉を紹介。さらに、諸説ある中尾さんの「映画デビュー作」について、生前の本人証言で裏付けられた事実を解説した。(文中一部敬称略)
佐藤氏と中尾さんは、東京の下町情緒あふれる街で“ご近所さん”だった。
「中尾さんは長年、谷中三丁目にお住まいでした。僕と妻が生活を始めた借家の3軒隣に池波志乃さんと中尾さんご夫婦が住んでおられた。志乃さんのお父さんである(落語家)金原亭馬生さんのお宅です。僕が通っていた『世界湯』という銭湯は(志乃の祖父)古今亭志ん生さんがよく通っていたことで知られていました。そんな生活圏で、近所のスーパーに行くと中尾さん夫妻とばったりお会いしたものです。今から約20年前のことです」
その後、佐藤氏は“ある作品”を鑑賞中、無名の中尾さんがいることに気づき、本人に裏取りした。
中尾さんの映画デビュー作を巡っては、訃報の中で「月曜日のユカ」(1964年3月公開、中平康監督)とする媒体があったことで、旧作邦画ファンらがX(旧ツイッター)などで「間違い」だと指摘する声が相次ぐ現象が起きた。報道では「本格的なデビュー」という注釈の上での記述もあったが、それでいえば、61年10月に公開された日活映画「真昼の誘拐」(若杉光夫監督)が正式デビュー作となる。
同作はソフト化されておらず、加賀まりこ主演の「月曜日のユカ」に比べて知名度はないが、近年、CS放送されていた。録画していた同作を今回、改めて見返してみると、中尾さんは、裕福な家の幼女をいったん連れ出してから送り返して報奨金をもらおうという“誘拐ごっこ”がリアルな誘拐事件に発展し、うろたえる若者グループの一員で、眼光鋭く、頭の切れる参謀的な役柄だった。アップでの長セリフもあり、仲間のリーダー格を演じた日活の同期である高橋英樹と激しく口論し、理路整然と自己弁明する中尾さんの姿には当時19歳とは思えない存在感があった。
ところが、同作より先に中尾さんが出演した映画があるというのだ。
佐藤氏は「1961年5月8日に公開され、当時16歳の吉永小百合さんが主演した『青い芽の素顔』(堀池清監督)です。中尾さんは玩具工場の工員役として出演していました。ただ、セリフもなく、名前もクレジットされていないので、その画像をiPadに入れ、取材時にご本人に見せて確認したところ、『ああ、俺だ。出てたんだね』と言われ、裏が取れました」と振り返った
佐藤氏はその登場画面を26日に都内のネオ書房アットワンダー神保町店で開催されたトークイベントで紹介。画面右奥の上部で満面の笑みを浮かべる当時18歳の中尾さんが確かにいた。
中尾さんの証言は2020年6月の取材でのこと。佐藤氏は「中尾さんには『俺より(中尾彬に)詳しいな』と言われました(笑)。その時、差し上げた僕の本『石原裕次郎 昭和太陽伝』(19年刊行)を持って一緒に記念撮影してくれました」と懐かしむ。
その裕次郎さんについても、中尾さんは言葉を残した。初共演となった66年12月公開の正月映画「逃亡列車」(江崎実生監督)の長野ロケ到着が、中尾さんの劇団仕事や事故が重なって遅れた時、「裕次郎さんが私の衣装と小道具を持って現場で待っていてくれたんです。今思えば、裕次郎さんがそうしてくれることで、現場の怒りを収めてくれたんですね」と明かした。
さらに、中尾さんは「日活時代、印象に残っているのは小百合ちゃん、渡哲也くんとの『愛と死の記録』(66年、蔵原惟繕監督)ですね。良い作品に出会いました」「スターを目指すより、味のある脇でありたいと思った」などと語ったという。
佐藤氏は「中尾さんは日活を辞めて絵画の勉強にフランスへ9か月行き、やっぱり役者になろうと帰国して『劇団民藝』の研究生になってすぐ『月曜日のユカ』のオーディションに受かって、今度は民藝の役者として日活撮影所に再び通った。民藝では滝沢修さんや宇野重吉さんといった素晴らしい俳優さんたちの背中を観ていた。大部屋から努力した撮影所の俳優ではなく、メソッドを身に付けた新劇の俳優としてこういう役ができた。そこが重要です」と解説した。
「本当に優しい方で、長年の疑問にも明快に答えて下さいました。エピソードをゆっくりと語る姿がよみがえってきます」。佐藤氏はそう振り返り、“谷中の大先輩”の冥福を祈った。
(デイリースポーツ/よろず~ニュース・北村 泰介)