大河『光る君へ』一条天皇の崩御 父・藤原道長を恨んだ中宮・彰子 譲位を巡る“策動”とは  識者語る

 NHK大河ドラマ「光る君へ」第40話は「君を置きて」。一条天皇の崩御の様が描かれていました。一条天皇は寛弘8年(1011)5月頃より、病となっていました。藤原道長の日記にも、日頃の天皇の様子は「尋常」ではなく、重病であるということが記載されています。もちろん、ずっと苦しんでおられた訳ではなく、時に体調が良くなることもありました。そうした時、天皇は側近で中納言の藤原行成を召して、譲位のことを相談されるのでした。

 一条天皇としては、寵愛していた中宮・定子(1000年に死去)との間に生まれた敦康親王(第一皇子)を立太子させたいと思っていたと推測されます。しかし、行成は第二皇子の敦成親王の立太子こそ相応しいと奏上するのでした。

 敦成親王は、藤原道長の娘・彰子と一条天皇との間に生まれた皇子です。行成は、道長は「重臣」で外戚であるので、敦成親王を立太子すべしと言うのでした。敦康親王には有力な後見人はいませんでした。行成の奏上を天皇は残念に思われたようですが、最終的には納得されます。

 天皇の病を受けて、道長は大江匡衡(歌人・赤染衛門の夫)を召して、易占いを行わせています。その結果は、天皇崩御という衝撃的なものでした。それを知った道長は、清涼殿において、慶円(一条天皇の護持僧)と共に泣いてしまいます。タイミングが悪いことに、一条天皇は几帳の帷子からその様をご覧になります。天皇は道長による譲位の策動を知り、病を更に重くしてしまうのでした。当時、一条天皇の東宮は、居貞親王(冷泉天皇の子)でしたので、天皇は居貞親王に譲位されます(6月13日)。三条天皇の誕生です。

 三条天皇の皇太子には、道長の孫・敦成親王が立つことになります。譲位後、出家され、法皇となった一条は6月22日に崩御されました。道長の譲位の策動を恨んだのが、一条天皇の中宮で道長の娘である彰子と言われています。彰子は敦康親王の養母になっており、親王に同情していたとされます。敦康親王の立太子を望む一条天皇の意向を無視し、譲位を図る道長を彰子は恨んだというのです。我が子の立太子を望むのが世間一般の感覚のように思いますが、そうでないところが、彰子の性格をよく現していると言えるでしょう。

 さて、今回崩御された一条天皇は、紫式部の書いた『源氏物語』を人に読ませて「作者(式部)は『日本紀』(日本書紀)を読んでいるようだ。学識がある」と語っていました(『紫式部日記』)。また当代随一の歌人・藤原公任も、祝宴の席で「この辺りに若紫(『源氏物語』の登場人物・紫の上の少女時代を指す)はおられますか」と紫式部を探し回ったと言われています。

 また、式部が書いていた『源氏物語』の草稿が道長により持ち出され、藤原妍子(道長と倫子の娘。三条天皇の中宮)に与えられた事もありました。『源氏物語』は、宮中、公家の間で話題になっていたのでした。

 ◇主要参考文献一覧 ・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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