朝ドラ俳優、被災地での奮闘30年綴った 業火の中で失われた命…節目迎える阪神・淡路大震災 新刊発売
1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災は年が明けると30年の節目を迎える。震災当日から一市民としてボランティア活動を続けてきた神戸市在住の俳優・堀内正美(74)が被災地の実態や思いをつづった初の著書「喪失、悲嘆、希望 阪神淡路大震災 その先に」(月待舎)が8日に出版された。その内容を踏まえ、堀内に話を聞いた。(文中敬称略)
社会教育映画の監督だった堀内甲の長男として東京・世田谷区で生まれ育ち、73年に俳優デビュー。翌年、NHK連続テレビ小説「鳩子の海」で全国的に注目され、その後もNHKドラマ「七瀬ふたたび」(79年)、実相寺昭雄監督作品、特撮ドラマなど幅広い作品に出演してきた。84年に神戸移住。震災後は市民ボランティア・ネットワーク「がんばろう!!神戸」やNPO法人「阪神淡路大震災1.17希望の灯り」(通称HANDS)を立ち上げ、被災者に寄り添った。
自身は神戸市北区の自宅で被災。家族を避難させると、甚大な被害が出ていると聞きつけて同市長田区に単身、車を運転して急行。地元住民と救命活動に当たる中、「生涯忘れられない出来事」を体験した。
倒壊した家屋を支えていた太い梁(はり)に挟まれて助けを求める小学生の男児がいた。大人たちは救助に当たったが、梁はびくともしない。熱を肌で感じる限界にあって、このままでは皆が焼け死ぬと判断。わが子に手を伸ばし続ける母親を数人がかりで押さえ、断腸の思いで火の届かない場所に運んだ。その描写では、炎の中で子どもの命を救えなかった無念さが行間からにじむ。堀内は「これほどまでに涙がこぼれ出たことはない。『人はこんなに泣けるものなのか』。そう思った」と記した。
喪失と悲嘆、その先にある希望を求めた現場での活動を詳細に記した。大災害後には一時的に理想郷に近いコミュニティが発生する「災害ユートピア」と、その後の厳しい実態。能登半島地震も含めた地方の被災地と東京(中央)との距離感や温度差。「公助、共助、自助」の在り方…。問題提起を重ねた。
堀内は「ボランティア奮闘記ではなく、約60年かけて社会を変えようとしたけれど、できなかった男の失敗記」と本書を総括。小学生時代に出会った「土門拳さんの写真集」で「社会」に目覚めた。「初めて知らない世界を見てショックを受けた。わがまま、好き嫌いを言い、ぐずれば何でも手に入った自分と、親もいない環境で生きている女の子の姿を見て、同じ子どもに生まれながら、何で貧富の差があるのか?と疑問に思い、新聞を読むようになった」と振り返る。
20歳の頃、三里塚闘争で地元千葉の農業従事者から投げかけられた「あんたらはいいなぁ…帰るところがあって。わしら、帰るところないから」という言葉に打ちのめされた。東京に帰って演劇に打ち込み、神戸での震災体験によって地域のコミュニティ作りがライフワークとなる。その背景として「山梨県に住んでいた父方の祖父母の、他者に対する無償の愛を注いでいる姿と、世の中には不要な人は一人もいない、必ず必要とされる自分があるという考えに触れたこと。学生運動でやり散らかして逃げた自分に対しての落とし前をつけたかったこと」を挙げた。
「震災モノは売れない」と言われても、神戸で立ち上がった出版社「月待舎」の1作目として世に出た。堀内は「この本には、失敗の数々を記しました。解決できたことも若干ありますが、大半が30年近く経った今でも解決できず、生き残った命を守れない現実に直面する時も多々あります…」と吐露する。
かつて「神戸に引っ越します」と所属プロの先輩・森繁久彌に伝えた時には「仕事が減るよ。それでもいいの?」と心配されたというが、今も新作への出演は続く。放映中のNHK連続テレビ小説「おむすび」には19日から神戸の「町中華」店主役で登場。「鳩子の海」をはじめ、東日本大震災を背景に企画段階から協力した「純と愛」(12年度)など朝ドラ出演は5作目となる。
16日には東京・神保町の書店「猫の本棚」で刊行記念サイン会と渋谷の映画館「シネマヴェーラ」で過去の貴重な出演作上映後にトークショーを行い、神戸にトンボ帰り。東京は既に“帰る”場所ではなくなった。これからも神戸で人に向き合う。ちなみに、「1・17」は“強い絆”を意味する「おむすびの日」でもある。
(デイリースポーツ/よろず~ニュース・北村 泰介)