大河『光る君へ』刀伊の入寇で軍功があった藤原隆家に恩賞なしの理由 紫式部はもう死んでいた!? 識者語る
NHK大河ドラマ「光る君へ」第47回は「哀しくとも」。寛仁3年(1019)3月、刀伊(女真族)が壱岐・対馬に来寇するという事件が起こります(刀伊の入寇)。異賊の撃退に奮闘したのが、太宰府に赴任していた藤原隆家(道長のライバル・伊周の弟)や九州の精兵たちでした。
刀伊軍を撃退できた日本側でしたが、入寇は大きな傷痕を残していました。多くの日本人が刀伊に捕えられ、拉致されていたのです。千名以上の拉致被害者がいたのです。そうした日本人拉致被害者を救う契機となったのは、高麗(朝鮮の王朝)の動きでした。
『大鏡』(平安時代後期成立の歴史物語)によると「新羅」(高麗)の帝が軍勢を出して、刀伊を攻撃(5月)。これを打ち破った際に、日本人拉致被害者を救出したのです。そして、使者をつけて、拉致被害者を日本に送り届けたのでした。隆家は高麗からの使者に黄金3百両を持たせて帰らせたとのこと。この処置を評価したのが『大鏡』によると藤原道長でした。刀伊軍の撃退やその後の処置に功績があった隆家ですので、褒賞があって然るべきでしょう。しかし、朝廷内では、褒賞に反対する公卿もいました。藤原公任・藤原行成らがそうでした。
異賊の追討を命じた勅符(国家の重要事件に際して、天皇の勅を直接、国司に下す文書)の到達以前の軍功なので、これを賞する必要なしと彼らは主張したのです。一方、褒賞すべしとしたのが、日記『小右記』の記主・藤原実資や、藤原斉信でした。意見対立はあったものの結局、褒賞が決定されます。戦闘で活躍した大蔵種材が壱岐守(前任者は刀伊軍により殺害)に任じられています。
だが、隆家の褒賞は『大鏡』には記載されず。何の恩賞もなかったようです。朝廷では、隆家を大臣か大納言にとの声もあったようですが、隆家が目を悪くして、交際を断っていたので、何の沙汰もありませんでした(『大鏡』)。隆家の軍功を無視したのは、藤原道長が隆家を警戒していたからとの見解もあります。隆家は後に再度、大宰権師に任じられ、1044年にこの世を去っています。
さて刀伊の入寇時(1019年)には、紫式部は既に死去していたという説があります。1014年に死去したのではないかという説(推測)があるのです。その一方で1031年頃まで長生きしたという説もあり、式部の没年については諸説あり、定まっていません。
▽主要参考文献一覧 ・志方正和遺稿集刊行会『九州古代中世史論集』(志方正和遺稿集刊行会、1967)・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)
(歴史学者・濱田 浩一郎)