大河『光る君へ』藤原道長 最期の日々…凄まじい病との戦い 紫式部は「運命の人」 識者語る

 NHK大河ドラマ「光る君へ」第48回(最終回)は「物語の先に」。藤原道長は、生涯において何度も病に苦しめられてきましたが、それは晩年も同様でした。晩年の道長は、子女を相次いで病で亡くしていますが、次女の妍子(母は倫子)の病が重くなった頃(1027年9月、病没)には、飲食もままならない状態だったといいます。冬に入る頃には、生と死の境を彷徨うような状態にありました。「痢病」(下痢を伴う病。赤痢か)を患っていたとのこと。

 それだけでなく、道長は背に出来た腫れ物にも苦しめられていました。腫れ物が出来ても、当初、道長は医療を受けなかったと言います。藤原実資(日記『小右記』の記主)は、道長の病状を記述していますが、道長は震え迷うという症状を呈していました。医師・和気相成の見立てによると、背中の腫れ物の「毒気」が腹中に入り、震えを引き起こしているとのことでした。

 病の最中、道長は法成寺阿弥陀堂の正面の間に移っています。9体の阿弥陀像と対峙した道長は何を思ったでしょうか。万寿4年(1027)12月1日には、道長の背中の腫れ物に対し、医師(丹波忠明)によって、針による治療が行われます。悲痛な声をあげ、苦しむ道長。針治により、膿汁と血が少々出ました。周りの者たちは、道長に死が迫っていると感じていました。

 12月3日には、既に道長は死去したとの報が流れますが、誤報でした。胸はまだ暖かく死んではいなかったのです。頭だけが揺れ動いている状態となった道長は、12月4日、62歳で死去します。道長の側近として活躍した藤原行成も、同日、厠に行く途中で倒れ、そのまま急死しています。

 ドラマの主人公・紫式部の晩年について詳しいことは分かっていません。式部の父・藤原為時が長和3年(1014)に越後守を任期中に辞任し、その2年後に出家したのは、娘・式部の死が要因との推測もありますが、それに疑問の声もあります。『源氏物語』という大作を残した式部の没年については諸説あり、確定はできません。

 紫式部は道長の支援がなければ『源氏物語』を描き切ることができなかったと言われています。そして道長もまた『源氏物語』がなければ、一条天皇を中宮・彰子(道長娘)のもとに引きとどめることは叶わなかったとされています。そうした事を考えれば2人(道長と紫式部)は「運命の人」だったと言えるでしょう。

 ◆主要参考文献一覧 ・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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