嘉門タツオ、桂雀々さんに捧げた追悼曲「残像」を熱唱 落語家時代からの盟友「自分は孤独や」心の声も代弁

 2024年もさまざまな分野で著名人の訃報が続く中、11月20日に肝不全のため64歳で死去した落語家・桂雀々さんを「偲ぶ会」が12月に都内で開催された。シンガー・ソングライターの嘉門タツオ(65)は共に地元の大阪で落語家として出発し、その後、表現形態を異にしながらも、東京で互いの道を模索した同世代の盟友を悼み、「残像」と題した自作曲を捧げた。(文中一部敬称略)

 「偲ぶ会」は、雀々さんと親交のあった女優・川上麻衣子が運営する東京・千駄木の「谷中サロン・まいの間」で15日と18日に開催され、タレント、落語家、イラストレーター、CM監督ら接点のあった仲間たちが集結。その一人である嘉門は15日の会に出席し、濃密な日々を語った。

 雀々さんは1977年、上方落語の“爆笑王”二代目桂枝雀に入門。師匠譲りの語り口と大きな身ぶりを交える芸風が開花し、11年に拠点を東京に移した。嘉門は高校在学中に笑福亭鶴光に弟子入り。17歳で笑福亭笑光(しょうこ)の名を授かり、19歳で念願のラジオ番組「MBSヤングタウン」(通称・ヤンタン)水曜日のレギュラーとなるが、破門となって番組も降板。81年、サザンオールスターズ・桑田佳祐との縁から嘉門達夫(当時)に改名し、「ゆけ!ゆけ!川口浩!!」「替え唄メドレー」などヒット曲を連発。92年にNHK紅白歌合戦出場、93年には日本武道館公演も果たした。

 嘉門は「座布団の上で落語やりながら『こんなん、おもろいか?』と思っている自分には“落語愛”がないことに気づいた。『俺は落語がやりたいんやない、ヤンタンがやりたかったんや』と。雀々は師弟愛も落語愛もすごくあって、落語ではかなわんなと思った。それは僕が19歳、雀々が18歳くらいの時でした」と振り返る。

 一足先に上京した嘉門の元に、雀々は度々、大阪から遊びに来たという。

 「雀々が東京に来ると、僕のマンションに何十回と泊まりにきて、(笑福亭)笑瓶ら仲間が集まって朝まで宴会という、今から15年くらい前までに約20年間続いた関係性があった。いつも東京駅に迎えに行っては、『東京ではハッタリかませなあかんねん』とイキって黒いポルシェに雀々を乗せ、有名人のおうち巡りをしていた。『ここは美輪明宏さんとこや。ここ、古館(伊知郎)さん。ここは美川憲一さん。ここ曲がったらタモリさんとこや』とか言いながら」

 雀々は芸歴40周年記念公演「地獄八景亡者戯2017」を東京国際フォーラムで開催。嘉門は「20周年の時も山下達郎さんがシークレットゲストで(高座に)来られたり、雀々には昔からビッグネームに頼るところがあったんですよ。40周年もゲストは俺とかでええのに、桑田佳祐さんと明石家さんまさん…。バランス取れんがな!」とツッコんで笑わせた。

 そして、ギターを手にした嘉門は自作曲「残像」を「こんなことしかできへんけれど、あんたの歌作ったわ」と歌い出した。「笑わせることこそが生きることだとひたすら走り続けた」「倒れる2日前まで高座に上がっていたし、舞台でも酒の席でも、いつも明るくおもろい人やった」などと歌いながら、「でも、お弟子さんにはいつでも『自分は孤独や』と言うてたらしい。あれだけ、にぎやかだった男が、ほんとは寂しかったんやね」と雀々さんの知られざる“心の声”を伝えると、思わずこみ上げた涙で一瞬だけ言葉が詰まった。

 それでも歌い続けた。「幼い頃に親と離れて、やっと出会えた師匠に先立たれた。50で大阪に背を向けて、東京で闘ってきた。おもろい顔で汗だくで大熱演、爆笑に揺れ動く客席。みんな、カラカラ笑うてたで、まだまだ、笑わしたかったんやろう。でも、ある意味、やり切ったとも思う。ひとまずはお疲れさん」。雀々さんの自叙伝「必死のパッチ」(08年)にも綴られた少年時代の壮絶な過去、枝雀師匠の死(99年)も踏まえた激動の人生を歌に込めた。

 2番では雀々さんが骨になった日の様子を描写。最後に、嘉門は「受け止めようもないけど、幕は下ろされた。拍手を送るわ、残像は残り続ける。俺らはまだ死ねん、まだ死なんと願ってる。もうちょっと、頑張っとくわ。ほんまにおもろかった、あんたは。ほなな、さいなら」と締めくくった。

 先立った友の“残像”。その存在を知る人たちが生きている限り、この世で語り継がれていく。

(デイリースポーツ/よろず~ニュース・北村 泰介)

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