【キタサンブラックのルーツを探る・前編】2代続けて悲劇も…3代目で大輪の花
「キタサンブラックのルーツを探る・前編」
親子三代にわたり全力で注いできた情熱と結晶が、歴史的名馬を誕生させた。キタサンブラックを生産したヤナガワ牧場は1967年、梁川正普(まさひろ)代表取締役の祖父である正雄さんと、父の正克会長の2人で創業。正普さんは「獣医師の祖父が突然『牧場を開こう』と。JRAへの就職がほぼ決まっていた父は、それを蹴って開場したのです」と明かす。
牧場運営に加えて血統の勉強、そして日高軽種馬農業協同組合の理事も務める正普さんの生活は多忙を極め、馬産地ひだかの発展のためにと海外研修にまで足を運ぶ。厳しい競争を生き抜くために、新しい血も積極的に導入した。「どんなに結果を残した競走馬を出しても、その血統だけでは駄目。絶えずセリに行って繁殖牝馬の購入をしたりしています」。その信念の元、突き進んできた最高傑作がキタサンブラックだ。
ブラックの母の母にあたるオトメゴコロは大手牧場から購入した。基礎繁殖牝馬として大きく期待していたが、サクラバクシンオーを父に持つキタサンブラックの母シュガーハート1頭だけを産み残して他界した。そのシュガーにも悲劇が襲う。栗東の崎山厩舎に入厩。素晴らしい動きを見せていたが、デビュー前に故障。未出走のまま繁殖入りとなった。正普さんは「ショックでしたが、予後不良ともなれば、キタサンブラックは生まれてこなかったわけですからね」と振り返る。
2代続けて悲劇に襲われたが、3代目にして大輪は咲いた。ブラックタイドとの配合で生まれたのがキタサンブラック。「あか抜けた馬体をしてましたね。基本的にいい馬でした」と生誕直後を振り返るが、現実の世界は多少違っていた。「なかなか売り手がつかず、私たちの牧場と他の馬主さんの共同名義で走らせる手前まで話は進んでいた。そこから北島オーナーへの売却が決まったのです」
北島オーナーは、かつて共同で北西牧場を経営。その場長を務めていたのが父の正克会長だった。北島オーナーが牧場経営から手を引き、数十年の時を経て正克会長と再会。それが、キタサンブラックとの出会いだった。「そこはやっぱり大スターなのでしょうね。持っている人とは北島オーナーのような方を言うのでしょうね」
ついに有馬記念を最後にキタサンブラックはターフを去る。「最後も勝ってほしい。そして自分の牧場で産まれた馬がその血を伝えていってほしい。10年、20年たってブラックタイプ(血統表)にキタサンブラックの名前が数多く載っていれば、それが牧場にとっては最高の幸せですから」と正普さんは切に願う。(後編に続く)