「俺のヒーローはオヤジだった」2010年に福永洋一記念を創設【福永祐一連載⑤】
3月から調教師に転身する福永祐一騎手(46)=栗東・フリー。現役ラスト騎乗が刻一刻と迫るなか、時代を彩った名馬やレースとともに、希代のスター騎手となった彼のヒストリーを全8回の連載で振り返る。
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福永にとって、父・洋一さんは偉大な存在として輝き続けている。
「生まれ育った高知は、オヤジにとって特別な場所。オヤジの名前がついた冠レースをできたら」-。2009年8月に高知競馬で行われたトークショー。福永が放ったこの言葉をきっかけに、翌年5月10日、高知競馬でナイター重賞『第1回福永洋一記念』が実現した。小雨の降る中、来場者数は当時の最多を記録。落馬事故以来、初めて公の場に姿を現し、プレゼンターを務めた洋一さんは、多くの声援と拍手に大きな声と笑顔で応えた。
デビュー3年目の1970年から9年連続でリーディングの座に君臨した父は“天才”と称された。しかし、79年3月4日のレースで落馬し、意識不明の重体に。脳に障害が残り、騎手生命を断たれた父の意思を継いだのが、長男・祐一だ。表彰式終了後、ファンの前で「たくさんの人が拍手で迎えてくれたので…」と声を詰まらせ、「良かったと思います」と涙した。
インタビューの場では「福永洋一の息子でなければ、騎手の道を選んでいなかった。その背中をずっと追い掛けてきましたが、乗れば乗るほど、父の存在は遠くなる。一生超えられない。俺の中のヒーローってオヤジだったんだなと再確認しました」と思いを口にした。
「来年はダービージョッキーになって帰ってきます」。回を重ね、壇上のあいさつでこう宣言するのが恒例となっていた。18年に自身19度目の挑戦で悲願のダービー初制覇。その翌年、高知のファンに喜びを報告した際には場内が大いに盛り上がった。
レース創設から13年がたち、福永はこう語る。「第1回の1着賞金70万円が、今は1200万円に。高知競馬が福永洋一記念を育てて、大きくしてくださった。恩義を感じていますし、関われる範囲で関わっていけたらと思います」。父の故郷でかなった孝行息子の夢はこれからも続いていく。