【ボート】変化に富んだ24年~西島義則の強さから学んだ変化への対応力~

ダーウィンの肖像と名言を記したTシャツを着用している西島義則
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 「ボート記者コラム 仕事・賭け事・独り言」

 24年も残りわずか。個人的に今年を一文字で表すと、『変』が迷わず頭に浮かぶ。14年間担当した児島ボートを離れ、宮島ボートへ異動。職場環境と住環境は大きく変わり、1月末の内々示以降は怒濤の展開だった。取材時は「あれっ、児島じゃないんですか?宮島にも来られるんですか?」と何十人もの選手に聞かれ「3月半ばに異動して、今は宮島の担当です。住んでいるのも広島です」と毎回説明。それほど、児島=私というイメージが定着していた。

 異動先の宮島ボートでは職場環境がガラリと変わった。初めて直前予想という分野に取り組み、同じボートに関わる仕事の中で業務内容は一変した。朝早く、夜も遅い。生活スタイルも激変。故郷に近い広島市とはいえ、14年ぶりに帰ってきた街の光景は様変わりしていた。引き継ぎはわずか6日間。必死で食らいついたが、頭の中は大混乱。毎晩遅くまで記者室で作業する私を見るに見かねて、こっそりお助けアイテムを授けてくれた人もいた。最初の2カ月は、2年に感じる長さ。大人になると時の流れがあっという間だと思っていたが、24年3月半ばから5月までの日々はとてつもなく長かった。何事もなく平穏に過ごす日々は短く、のたうち回るような毎日は長く感じる。それが証拠に、ある程度仕事に慣れてからの数カ月はビューンと過ぎて、今12月を迎えている。

 宮島ボートは実況アナ時代、記者として担当した17年前に続き、3度目の“出戻り”。私がいた当時と同じスタイルで仕事を続けている人もいれば、新社会人だった人が出世していたケースもある。30年の時を経て再会したカメラマンは、かわいい笑顔の男の子からいつもニコニコしているおじさんに変貌を遂げていた。あちらはあちらで、気の強いお姉さんが、怖い形相で仕事に走り回るおばさんになっていた。と言いたいところだろう。

 年を取り、変わるということは、多くの場合、『衰え』を意味する。年を重ねるごとに進化し続けることは神の領域だ。変わらないことにも違いがある。高いレベルを維持し続け、変わらずにいることは並大抵ではない。大抵の場合、人は変わらず同じ環境に身を置く内、“慣れ”を身にまとう。上達することもなく、それを求められることもなく、つつがなく日々を過ごすことに慣れる。油断すると、同じ状態をキープすることもままならずジワジワと劣化する。そのことに気づかず、人は老いていく。

 私はそうなることが怖かった。児島ボートでの仕事は充実していた。ある一定期間はそれで良かった。だが、長期間同じ場所にいると、人は勘違いを起こす。仕事ができることと、単に慣れることの区別が付かなくなる。だからこそ、一時的な停滞を承知の上で企業は異動という措置を取る…と、私は思っている。環境が変わり、変化に対応することは、老化にあらがい進化するチャンスなのだ。

 宮島に戻り、私はある言葉に出会った。それは、進化し続ける鉄人レーサー・西島義則が大切にしてきたダーウィンの言葉だ。『生き残る種というのは、最も強いものでも、最も知性があるものでもなく、変化に対応できものである』。西島は私が知る、最も強く賢い選手だ。その西島の道しるべである言葉だけに、とてつもない説得力がある。私は前回の当コラムで、西島の後輩・木山和幸に話を聞いて言葉を記した。

 今年会った西島は、前面がダーウィンの肖像、背面にくだんの名言を記したTシャツを着ていた。日本語と英語バージョンの2種類がある。聞けば一年以上前から着用しているらしい。なのに全く気づかなかった。私自身の胸に刺さるまで時間を要したのだろう。

 宮島担当になり、さまざまな変化を見てきた。生涯A1だった市川哲也がB級落ちの危機に見舞われ、ギリギリの勝負駆けでA2をキープしたのは4月末。市川は1月からA1復帰を決めたが、初めてのA2陥落による心の変化があっただろう。市川のように踏ん張った選手はまれで、ひっそりと引退の道を選ぶ人もいる。そんな風にボート界の勢力図が変わりゆく中、西島は63歳の今もバリバリのA1級として堂々と若手と渡り合っている。それは変化に対応し続けてきた西島だからできること。変化に満ちた24年、どんな世代の人にも伝えたい。現状に甘んじていては生き残ることはできない。変わる勇気と変化への対応。それこそが、今を生き抜き、進化するすべなのだ。(宮島ボート担当・野白由貴子)

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