なぜ廃止…歴史の闇に葬られた西宮競輪

 かつて野球場と競輪場の2つの顔を持っていた西宮スタジアムの模型
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 10月26日から愛知県・一宮競輪場で「開場63周年記念・G3毛織王冠争奪戦」が開催される。競輪で開場記念(開設記念)といえば、当場ではその年の一番大きなレースになる。優勝賞金も高く、全国からトップレーサーが集まる一大イベントだ。しかし一宮にとって、これが最後の開場記念になりそうだ。

 近年は競輪に限らず、公営レースの売上減少に歯止めがかからない。そうなれば各地方自治体は競輪事業からの撤退を余儀なくさせられる。昨年、一宮・谷一夫市長は2014年3月末で廃止することを発表。63年の歴史にピリオドを打つことになる。

 60年代から80年代、高度経済成長期からバブル経済崩壊時まで、日本経済が高いレベルで安定していたころ、競輪場は全国で50場もあった。一宮が廃止されると43場になる。その廃止の口火を切ったのが02年3月の西宮、甲子園競輪だ。

 甲子園競輪場は阪神甲子園駅から歩くと、ちょうど球場の裏手にあたる。現在は分譲マンションなどになっている。西宮競輪場は阪急ブレーブスの本拠地・阪急西宮スタジアムとイコールで、野球場と競輪場の2つの顔を持っていた。

 西宮は球場内にやぐらを立て、118枚のアスファルトをつなぎ合わせた組み立てバンクだった。ゆえに継ぎ目ができる。走行するたびにガタガタと音がして走りにくいという選手も多かったが“ミスター競輪”と呼ばれた中野浩一は得意バンクの一つにしていた。

 ちなみに西宮記念で優勝すると阪急電鉄から副賞として1カラット相当のダイヤモンドが贈られた。中野同様に得意にしていた三宅伸(岡山)は「賞金もうれしかったけど、このダイヤは本当にありがたかったですね。僕も(西宮は)好きでした。嫁も大喜びしてましたし」と振り返っている。ちなみに立川競輪・阿佐田哲也杯の副賞は、日産スカイラインだったこともある。

 このバンクの脱着にはそれぞれ半日もかかり、その費用は約700万円ともいわれた。他の競輪場と比べると余分な経費がかかりながらも『東の川崎、西の西宮』と呼ばれるほど売上は良く、全盛期には阪急ブレーブスの公式戦より入場者が多かった。では、なぜ廃止に追い込まれたのか。

 売上減少はレジャーの多様化、ファンの高齢化、経済事情など理由はさまざまで一概には論じられない。だが次の一手として、ナイター開催を希望する声がありながらも(実際にはプロ野球で使用しており、競輪でも午後4時くらいの天候が悪いときは照明に明かりがともった)実現することなく終わったことが悔やまれてならない。もし実現していたら、大井競馬よりも早く公営レース初のナイター開催として注目を浴びていたことは間違いない。

 今や、優良といわれている競輪場はナイター施設が整っている。その数すでに44場中10場。西宮の場合は周辺住民の反対、警備上の理由などで幻に終わっている。しかし、本音のところでは「野球はOKだが、競輪は駄目」という“差別意識”が根幹にはあったことは十分想像できる。では、競輪の何が差別されたのか。

 1950年、鳴尾競輪場(のちの甲子園競輪場)で起きた騒擾(そうじょう)事件は別名「鳴尾事件」と呼ばれる。スペースを割くのでここでは割愛するが、ファンが消防車のガソリンを抜き取り投票所に放火、さらに売上金を奪おうとする暴徒に警察官が威嚇射撃して死亡者が出る事態にまで発展した。それ以降「競輪ファンは何をするか分からない」という世間一般のイメージができ上がってしまったのかもしれない。

 現在、その跡地は「西宮ガーデンズ」という商業施設となり、ショッピングや食事に訪れる家族連れ、カップルで賑わっている。その5階「阪急西宮ギャラリー」ではスタジアムの歴史を刻んだ映像、パネルなどが展示されている。

 しかし、この地でかつて競輪が開催されていた事実は、見事なまでに語られていない。西宮競輪はまさに歴史の闇に葬られた。

(デイリースポーツ・坂元昭夫)

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