95年センバツVの観音寺中央“その後”
阪神・淡路大震災の影響で一時は開催が危ぶまれた1995年センバツ。厳粛ムードの中で大会は開かれ、観音寺中央(香川)が初出場初優勝を達成した。現在、同校野球部を率いるのが当時主将だった土井裕介監督(37)。恩師の橋野純元監督(67)のモットー「全力疾走」を受け継ぎ、再び甲子園を目指して母校を鍛えている。あれから20年。復興センバツを駆け抜けた観音寺中央の“その後”を追った。
冷たい風が吹くグラウンドに元気いっぱいの声が響く。
「全力疾走 いくぞ!甲子園!」
バックネットに掲げられたモットーが、春を目指して練習に励む観音寺中央ナインを力強く鼓舞している。
95年春。阪神・淡路大震災から2カ月半後に開催されたセンバツで、観音寺中央は初出場初優勝の快挙を成し遂げた。兵庫県西宮市出身で家族が被災した土井主将が現在、監督として母校野球部を率いている。
「まだまだ力不足ですが、もう一回甲子園に行きたいという思いは一番にあります」
高校卒業後、関大に進学した土井監督は2000年に社会人の三菱自動車岡崎に入社。3年間プレーしたあと、02年シーズンを最後に引退した。
その後は同社経理部でサラリーマン生活を続けたが、心の片隅にあった「甲子園」への思いは消えなかった。高校野球の指導者になるため、仕事をしながら通信教育を受講。2年間かけて教員免許を取得した。
転身の決意を最初に報告したのが、高校時代の恩師・橋野純監督(当時は丸亀商)だった。最初は「大企業を辞めてまで…」と反対されたが、土井監督は「どうしてもやりたい」と譲らなかった。
06年春、観音寺中央に赴任。母校野球部に帰ってきた元主将は、かつて恩師が掲げていた「全力疾走」を部のモットーとして復活させた。
観音寺中央は95年春の全国制覇のあと、同年夏にも甲子園に出場して2回戦敗退。その後は1度も聖地の土を踏んでいない。
ただ、チームは着実に復活への道を進んでいる。昨秋の香川大会では準優勝。部員わずか15人のチームで四国大会出場を果たした。
「僕が監督になってから一番人数が少ない。四国大会に行けたのは奇跡と言っていい」と土井監督。四国大会は1回戦で敗れたが、確かな手応えをつかむ秋の快進撃だった。
昨夏、恩師の橋野監督が丸亀城西の指揮官を退任し、40年以上に及ぶ監督生活に終止符を打った。土井監督は「観音寺中央時代の橋野先生は選手の自主性を重んじてくれて、怒鳴ったりすることもなかった。練習メニューも自分たちが考えていた」と振り返る。
今も大会が終わるたびに恩師から電話がかかってくるという。「よう頑張っとるの」「ええ野球しとるぞ」。そんな励ましが力となり、昨秋の四国大会出場につながった。
開催が危ぶまれた20年前のセンバツ。土井監督は「一生懸命、感謝の気持ちを持ってプレーした。あの経験が今の自分に生きている」と力を込めた。そして「橋野先生の教えを受け継いで、いいチームをつくりたい」。純白のユニホームに身を包み、再び甲子園を目指して全力疾走を続けている。