山下氏、横浜・渡辺前監督対談【4】
デイリースポーツ評論家の山下智茂氏(71)=星稜総監督=が高校野球の未来を考える企画の第6弾は特別編。昨夏に監督を勇退した横浜の前監督、渡辺元智氏(71)を訪ねた名将対談となった。2人は、自分たちの若き日の失敗や教訓、現役指導者への思いなどを熱く語り合った。
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-話はさかのぼるが、大学在学中に右肩を痛めて中退した時には生活が荒れていたと。
渡辺元智氏(以下、渡辺)「家族と暮らしたい、プロに行きたいという夢があった。やっと大学まで行って家族に迷惑かけないところまで行ったのに。今もメスの跡があるけど、軟骨と神経が密着していて、うまくとるのが当時は難作業だった。野球ができないのに大学にいても仕方がないから、逃げるように千葉へ。京葉工業地帯が造成中で、親戚がトップでやっていたからブルドーザーの工事現場へ入った。千葉市内なんて畑と田んぼで他に何もなかった。ブルドーザーの中の横軸に綱金が入っているんだけど、当時はそれがグラムいくらで売れた。酒を買ってきて、つまみがないから空気銃を改造してすずめを撃つんです。つまみにするために。これがうまい。つつかれる夢をよく見ましたよ(笑)」
-そんな時に、恩師の笹尾晃平監督が指導者にと誘ってくれた。
渡辺「自分で言うのもおかしいですが、高校時代は優等生。まじめさを買われたから呼ばれたと思うんです。野球をやっていると偶然をあまり信じない。偶然を必然に変える努力をしていてまぐれがあるとは言いたくないけど、こればかりはそうかと。すずめを撃っていたのになぜ声がかかったのか。実は、どうしてももう一度野球をやりたくて、当時強かった熊谷組の練習に行ったんです。よかったから獲るよと言われていた。少し休んで肩も軽くなっていたけど行ってみたらダメだった。その後に声がかかった。生徒には、どこかで誰かが見ているから、まじめにやれよと言います」
-親に家を建てたかった。
渡辺「小さい願望です。私はわがままだったから。ひたすら野球、野球で野球やりたいがために渡辺の家に養子に行った。あの頃は養子というのは大変。おやじのこけんに関わることだから。おやじと暮らした時期はあまりなくて。祖父に預けられていたから。おやじは(治らないと当時言われた)肋膜(炎)にかかっていた。おふくろと平塚のいい結核療養所に移り、われわれはおばあさんのとこに預けられた。そしたら高校の話が出て渡辺の家へ。亡くなる前には(父に)こづかいをあげられるようにはなりました」
-山下氏も父親を意識していた。
山下智茂氏(以下、山下)「おやじを超えたいよね。うちは船乗りで私も神戸商船大を受けたけど、滑ってよかった。最初に甲子園に行った時に、神戸商船大の近くにホテル芦屋があって泊まっていて、生徒にオレはあそこを滑ったが、人生何があるかわからんって言いました。あそこを滑ってよかったよって」
-高校球界も変わってきて元プロの指導者が入ってきた。
山下「今センバツは中学野球や社会人野球の指導者が出てきた。そういう経験を高校野球にどう生かしてくれるか。授業を見てない人が、野球だけを教えるのは難しさがあると思う」
渡辺「僕は風土野球というのがあると思います。例えば(秀岳館の)鍛治舎さんは大阪の選手を連れて行ったが、熊本の地元の選手をまとめて強くしたらもっと評価できる。いきなり3年目(で甲子園)は立派だけど。また、データ野球、自分の野球理論を当てはめる野球だと思う。チームとしては強くなるけど、個性豊かな選手が出てくるかどうかはこれから。高松商の選手に任せた野球も、いざという時に指導者は何のためにやるのかと。野球は選手がやるものだが、ベンチにいる以上は間違った方向に行った時に間違っていると言わなきゃいけない。ただ、いずれにしてもその野球で結果が出た。それなら、その野球で常勝軍団をつくってもらいたい。ある時期にちょっと出てすぐに終わるのでは伝統とは言えない。いい選手が集まらなくても、甲子園に出られるようなチームを。そこで初めて成果が出てくる」
-一過性では強豪とは呼べない。
渡辺「そういう意味では、敦賀気比には注目していた。コンスタントに山下先生や(福井商元監督の)北野さんみたいに定着して甲子園に出てこられるのかと。野球が根付いて伝統になって初めて(真価が)問われる。“人間鍛治舎”の野球が浸透していけば、甲子園の経験が生きてくると思う」
-強さの追求だけじゃない。
渡辺「東北に優勝旗がちらついてますよ。仙台育英にしても八戸学院光星にしてもね。これから大変だと思う。形ができても、そこから土台を降ろしてやっていけるかどうか。毎年、優勝候補は違ってほしい。その中で注目されたチームがどう生き残っていくか。継続は難しいから」
-どうすればいい?
渡辺「いい習慣をつくることが大切。選手を勧誘しても常にいい選手がとれるわけじゃない。でもそこそこ能力にあったチームづくりをしておけば、チャンスがくればまたいける。いい習慣ができあがっているかどうか、伝統じゃないですか?」
-伝統校は礼儀作法や素行も重視する。
渡辺「学校を代表し、部を代表していい加減な格好はできない。財布のひもが許す限りは身だしなみはきちっとしろと言います。ユニホーム姿も。(伝統校と呼ばれることで)自分を律することにつながる。本当はそういう教育もしたい。ユニホームの着方、帽子の着方、きちっとしろ。野球で教えることがたくさんある」
山下「松井にも高校時代から一流の物を全部教えましたよ。時計も靴も。松井だけじゃなく冬のミーティングで全員に。オレは甲子園に行った時に恥をかいた。普通のブレザーを着ていったら、一流の監督さんはぴしっとしている。負けたと思ったっていう話をね。まあ、尾藤さんはブレザーと白いズックだったけど(笑)」
-教え子から教えられることは?
渡辺「文武両道というのはうちにもいて、松坂も賢い。賢いからあそこまで行ったと思う。僕が厳しかった時代の子は練習はみんなと遅くまでやっていて、夜1時から3時くらいまで勉強する子がいた。7時くらいに起きて4時間くらいしか寝てない。こういう子は卒業して野球が僕を育ててくれたと言う。また、鈴木尚典(元横浜=現DeNA)は合宿所でトイレに行く時も必ずバットを持っていた。どこへ行くにも、授業中以外は必ずバット持って歩いてる。気がつけばスイングするんでしょう。そういうことをやり遂げるから、プロで首位打者にもなれるのかなと思う」
山下「僕は小松辰夫(元中日)やね。昭和60年代に5年間甲子園に出られず僕がスランプの時、大きな段ボールを送ってきた。バットかと思ったら、ゴルフのフルセット。プロのモデルで山下と名前が書いてある。オレに余裕を持てと言いたいんやなって思いました。僕はゴルフを1球でやめたんです。1年やったらシングルになると言われてこんなおもしろいものはないと思ったけど、好きなものをやめて甲子園をとるとやめた。それでそのゴルフセットを勉強部屋において、毎日磨きました。ありがとうな、ありがとうなって。そうしたらまた甲子園に行けるようになった。71回大会。渡辺さんが部長だった大会です」
-方針転換した年。
山下「それまで勝てなくて嫌がらせのカミソリが送られてきたりして悩んでいたので、勝つ野球を捨てて育てる野球をやると宣言した。その年の甲子園です。そこで横浜に勝ったので、優勝候補を負かした、横浜に勝ったと中学生がうちに来るようになった。それがきっかけで、松井や山本省吾(元オリックスなど)へつながったんですよ」(5に続く)