山下氏、横浜・渡辺前監督対談【3】
デイリースポーツ評論家の山下智茂氏(71)=星稜総監督=が高校野球の未来を考える企画の第6弾は特別編。昨夏に監督を勇退した横浜の前監督、渡辺元智氏(71)を訪ねた名将対談となった。2人は、自分たちの若き日の失敗や教訓、現役指導者への思いなどを熱く語り合った。
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-言葉は大事だ。
渡辺元智氏(以下、渡辺)「初優勝の年(73年春)に富田という選手がいて決勝戦でエラーした(記録は安打)。捕れば優勝という打球。当時の私は、この野郎!と怒って待っていたけど、レフトから帰ってくる間があいたのがよかった。泣きながら『すいません』と言うので、私は少し落ち着いて『打てばいい。取り返せ』と言いました。当時はそういうことを言ったことはなかった。すると富田はホームラン。1本も打ったことがなかったのに」
-自分の欲求不満をぶつけるだけの指導者もいる。
山下智茂氏(以下、山下)「少年野球の指導者から変えていかないといかんよね。30年は遅れているよ。僕らが若い頃にやっていたことを今やっている。時代に応じて変化していかないとと思う。残さないといかんことは残さないといけないけど、自分が変わっていくことも大事なことじゃないか」
渡辺「蹴っ飛ばしながら昔の高校野球をやっている指導者もいる。小、中学なんてどっちへ走るかわからない。見守るべきなのに、せっかくのいいところを直してしまう。個性を見抜く指導者になって、感謝の気持ちを持ってやれと人間教育をしてほしい」
-なぜそうなる?
渡辺「野球にがつがつしすぎていろんな人との接触がないでしょ?野球の道で行きたいのであればあるほど、いろんな異業種の人と会う。野球の世界だけじゃない。(監督の)最後の方は言い続けてきた。お前たち、野球を一生懸命やれ、徹底して苦しめ、努力しろと。野球が終わった後の人生で、失敗したことが生きる。僕は努力していますと簡単に言うけど、死にものぐるいでやらないとだめ。そこで初めて明暗が分かれる。そこで勝った負けたを超越する。生きる道はいくらでもある」
-挫折すると終わりだと思ってしまう。
山下「僕はどちらかというと補欠の選手が好きで、徹底的に鍛えた。何でもいいからプロになれ。それがこれから役立つんだと。野球は人間が成長する旅や、いい旅をするために苦労しなきゃいかんと言う。渡辺さんを見ていると、監督になってから大学でまた勉強して教員になった。生徒は渡辺さんの戦いを見ていると思う」
渡辺「(監督を)やっていると不安がつきまとう。生徒にやれやれというけど自分でもトライしないといかんなと思って。簡単なことがわかってない。授業に出て生徒の気質もわからんといけない。同時に万に一つ、野球でだめになっても教員として残れると」
-保険的な?
渡辺「いや、だからこそ安心して野球で倒れていいよ、そこまでのめり込むぞというようなものを持った方がいいと思ったから」
-渡辺氏も山下氏も自宅に生徒を預かって育てた。
渡辺「いい選手ではなく、とんでもないとか、家庭的に恵まれないとかいう選手を」
-自宅に預かると、家族は大変だ。
渡辺「女房の愛情もあった。選手に食べさせた残りものを食べていた。生徒は敏感だから見ている。野球ばかりやっても選手はついてこない。人間と人間のつきあいがなければ」
山下「ある時、うちのグラウンドに男性が表れて、横浜出身で渡辺監督の最初の下宿生だって。新婚の時でしょ」
渡辺「当時6畳で3人川の字で(笑)。長屋で共同炊事場、共同トイレで」
山下「母の日になればうちも全国から(プレゼントが)いっぱい。女房に来て僕には来ない(笑)。お母さんありがとうって。生徒は、女房がどこへ行くのかって見てたら質屋に行ってたと卒業してから話していた。僕は知らなかったけど。僕は6人を家に置いて一緒に風呂に入って飯食ってしていたけど、本当に渡辺さんの奥さんはすごい」
渡辺「寮がないからわが家においていたけど、48年に優勝した時に寮でも作ってやろうかとなった。52年くらいに寮ができたのかな。40人くらい入って、その時に初めて寮母になってから40人をずっと一人で。暖房も冷房もないから足がうっ血してね。われわれの時代は休むのが嫌いだから、熱が出ても一日も休まない。うっ血がひどくて手術もした。でも、そこまでやり通したんです。今は娘が栄養士の免許をとって(寮母を)やっています。寮ができてからも、家庭環境の悪いのはうちに置いたので、女房は合宿所で40人分作り、家では生徒、私が遅く帰ってきたらまた私のを作って。だから頭が上がらないです。50年間のうち30数年やってましたよ」
山下「女性の方が僕らより見る目がある。女性は一人一人飯を食べさせながら、食べる具合とかあいさつの仕方とほんとによく見てる。あの子変わったねと言ってて、試合で使ったら変わってたりとか、勉強になったね。洗濯は洗濯機に入れたらすぐユニホームが傷むから、女房は洗濯板と洗濯石けんで洗っていた。そういう姿を生徒は見てるから、大事に着るよね、奥さんが大変だからと泥を落としてきたりね」
-奥さんあっての監督生活だ。
山下「一生頭が上がらない(笑)。渡辺さんは病気と闘いながら50年くらいずっと高校野球をやってきたでしょ?病院から野球場に来たとか聞くとすげえなって。この強さは」
渡辺「運がよかったですね。涌井の時に脳梗塞をやってひっくり返った時は、後に小倉(清一郎=元部長)がいたんです。ゴーンと(地面に)いってたら…」
-若い時から病気がちだった。
渡辺「潰瘍をやったりメニエール症候群をやったり。そういうのが尾を引いてドロップダウンでバタッと倒れたり、意識があっても体が動かなかったり。メニエールが非常に激しくて、寝返りを打つと気持ち悪くて、プラットホームで立っていて、こっちまで動いているようで。悲壮感に駆られることはなかったけど」
-30代から40代。
渡辺「20代は睡眠時間が3、4時間であとは野球漬け。優勝してから誘惑が多くなって。練習はきちっとやるけど、夜10時くらいに声がかかって行っちゃう。ナイトクラブがはやっていて朝帰り。(妻からは)あんたが早いか、新聞配達が早いかって。自宅に生徒を置いてからはなくなったけど」(4に続く)