恋愛映画の旗手・今泉力哉監督、かくあるべき傑作「愛がなんだ」を語る
猫背でひょろひょろのマモちゃん(成田凌)と出会い、テルコ(岸井ゆきの)の世界はマモちゃん一色に染まり始める。しかし、マモちゃんにとってテルコは、都合のいい女でしかなかった・・・。角田光代による濃密な片思い小説を、恋愛映画の旗手・今泉力哉監督が見事に映画化した『愛がなんだ』が、クチコミで話題を呼んでいる。公開から1カ月経ち、さらに上映館は拡大。この現状について今泉監督に話を訊いた。
取材・写真/田辺ユウキ
「現実には、いろんな振る舞い方がある」(今泉監督)
──公開直後から各劇場でチケット完売・満席が続き、「観たくても鑑賞できない」という声が相次ぎました。この状況をどう見ていましたか。
意外と冷静でした。「やったぜ!」とか、まったくなくて。これは性格なんですけど。喜びよりは安堵の気持ちですね。今後の監督作も控えていますし、過去作をこういう風にできなかった理由を考えてしまったり。
──恋愛映画の大ヒット現象としては、2017年に公開された冨永昌敬監督作『南瓜とマヨネーズ』の盛り上がりに近いですよね。今泉さんはずっと誰しもがちょっと見覚えのある恋愛を撮っていますけど、そういった作品が熱烈に支持されている理由は何だと思いますか。
単純に、本数が少ないからじゃないですか。『南瓜とマヨネーズ』もそうですけど、今までありそうでなかった。僕は井口奈己監督の『人のセックスを笑うな』(2008年)が大好きで。いわゆるキラキラ映画もいいんですけど、そこには現実と差がある。もちろん映画なので、リアリティが絶対とは言いませんが、自分たちの隣に寄り添うような恋愛映画が邦画には本当に少ない。だからみんな興味を持ってくれたのではないでしょうか。
──でも、そういう身近な映画を撮るには、作り手の常日頃の視点、観察眼、恋愛に対する向き合い方がないとできません。今泉さんは昔から、ツイッターでも恋愛について細かい指摘をしていましたし。
確かに。恋愛についていつも考えたり、いろいろ見たりしているから、そこで感じた、恋愛をしている人たちの温度や音を映画に取り入れています。特に音には気をつけていますね。
──各場面の音のレベルのバランスが確かに良い。
ベースとなる音を、どのシーンのどういうやりとりに持っていくのか。それが重要でした。登場人物が喋っているところ、黙っているところ。周りの雑音。細かくレベル調整しました。映画ってさまざまな構成要素でできあがっていきますが、音をきっちりすることで(観る人を)芝居に集中させられるんです。
──今泉さんの映画の登場人物は、まさに集中して観ることができるんですよね。
恋愛の温度に関しては、冨永昌敬監督の『南瓜とマヨネーズ』は本当に素晴らしかった。冨永さんは恋愛映画をずっと撮ってきたわけではないのに、あれが撮れちゃう。「ちょっと待ってよ! 恋愛まで撮れるの?」って思いました。
──ホント、ずるい方ですよね(笑)。
ここだけの話、自分も『南瓜とマヨネーズ』はずっとやりたかったんですよ(苦笑)。でも、撮ったのが冨永さんで良かった。実は『愛がなんだ』の劇中の題字や、途中に出てくる登場人物の名前のテロップは、冨永さんがデザインしているんですよ。冨永さんの映画のエンドロールの書体って、明朝体をちょっと崩している感じなんだけど、あれがすごく好きで。「『冨永フォント』を使わせてください」とお願いしました。
──あ、そうだったんですね。芝居の話に戻りますが、『南瓜とマヨネーズ』も『愛がなんだ』も、芝居面で「ここで、こういう反応をするんだ」と驚くことが多いんですよ。
この前、トークショーで(ナカハラ役の)若葉竜也さんと話していたのですが、チャラい男、嫌な男の役の作り方は大体「俺さぁ~~」みたなオラオラな感じだけど、本当にヤバい奴は、相手の目をちゃんと見て真剣に「絶対に今度、金を返すからさ」と言ってくるようなタイプ。芝居面でも、つらいときに目に見えて「俺、つらいわ」という表現ではなく、気丈に振舞おうとしたりする方が痛々しく見えるし。現実には、そういういろんな振る舞い方があるので。
──「悲しい場面だから、めちゃくちゃ悲しい顔で」みたいに、短絡的な演出になってしまうと・・・。
それだと、絶対に良い芝居にはならないですよね。基本的には、なるべく現場で起きること、目の前の人のアクションに反応することを意識すると、良い芝居が生まれる。終盤、マモルが作った鍋焼きうどんをテルコが食べる長回しのシーンがあるじゃないですか。テルコは自分の家なので、どこに座るか分かっている。でも、マモルはどこに座るのが正しいのか分からないんですよね。
──マモルはそこに所在がないですし。
で、成田さんに「どこ座る?」と喋っていたら、「ここですかね」とテルコのめっちゃ近くに座ったんです。これからヘビーな話をするのに、こちらも想像していなかった距離感で。「マモル的に近くない?そこに座れる?」と聞いたんですけど。でも成田さんに聞いたら、あれはあえての距離感だったみたい。真横に座れば相手の顔を見なくて済むから。顔が見えてしまうと、そのあとヘビーな話ができなくなるからって。しかも床に座るとき、自分だけクッションを使っているんですよね。
──あ、たしかにそうですね。
あと、「きっと長い話になりそうだから」と感じて、成田さん、自分だけクッションを使ってるんです。マモちゃんっぽい。あのシーン、僕はめちゃくちゃ怖かったんですよ。カットかけたときに8分くらいあって。特に終盤は、長回しが繰り返しであるので。でも長回しの繰り返しは、『サッドティー』(2013年)の反省が込められているんです。
「これが正しい、という答えを決めつけない」(今泉監督)
──『サッドティー』は、「ちゃんと好きとはどういうことか」をテーマに、二股している映画監督など、12人の恋愛を追いかけていましたよね。
あの作品では、プロデューサーの直井卓俊さん(SPOTTED PRODUCTIONS)に仮編集版を観てもらって、当初は男女2人きりの別れ話の場面が、1カット10分で、2回連続、流れる構成にしていたんです。でも直井さんに「それでは、観る人が長く感じるのでは?」と指摘され、最初の別れ話を3人にしたんです。コミカルにするために。『愛がなんだ』はその経験を生かして、観る人の長さの感覚と疲労を考えたところはあります。それこそ、人物名の文字テロップとかはそのひとつの工夫ですね。
──『愛がなんだ』のあの終盤シーンの特徴として、1度はふたりが近い距離でしゃべっていて、でもテルコが一旦席を立ち、戻ってくるときにマモルと少し距離を空けますよね。
あれも僕の演出ではないです。岸井さんのアイデアですね。あともうひとつ指摘したいのが、マモルが「うどん、ちょっとちょうだい」と食べて、「やさしい」と言う部分。あの「やさしい」もテストが終わって本番直前に成田さんにぶち込んだセリフで。「食べてから、やさしいと言ってください」って。それは、食べたうどんの味もそうだし、うどんを作る行為に対してもそう。俺が思っていた「やさしい」とは違ったニュアンスが出てきたんですけど(笑)、でもそれも良かった。想像していなかったのは、テルコが普通にうれしそうなんですよね。ニヤけちゃっているし。
──で、おそらくまたテルコは沼にはまっていくという(笑)。でも実際、今泉さんはリアルに充実している「リア充」には興味がないですよね。でも、そもそもリアルに充実している恋愛とは何なのか・・・ってところですけど。
リア充の恋愛を撮ってみようと考えたりはするんです。学生時代とか、友だちのなかでも、誰かと付き合って、恋人を思いやるがあまり、それ以外の周囲との関係がどんどん疎かになり、魅力がなくなっていく人たちとか結構いましたし。それで別れてしまって、最終的に人としての魅力も残っていない。そういう友だちを何人か見ていて。そういうリア充ならやってみたい(笑)。
──今でもまだ「結婚」がリアルに充実した恋愛のひとつの指標ではあるかもしれません。でも、この映画では「結婚は安定にはならない」と言う。この作品における充実した恋愛というのは、結婚も当てはまらない。ということは、『愛がなんだ』の恋愛は何を拠りどころにしているんだろうという問題があります。
そのあたりの伝え方は気をつけていたんですよ。というのも、「結婚」が一番の幸せだという考えを今提示しても、嘘になるじゃないですか。まさに、数ある選択肢のひとつですよね。少し前にゼクシィのCMのコピーで、「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです」ってのがあって。ものすごくいいなと思って。
──なるほど。選択肢ですか。
つまり、「これが正しい」という答えを決めつけないこと。LGBTをはじめ、たとえ個人として理解できないことがあったとしても、存在として当たり前のように認められる社会になって欲しい。僕の映画は、分かりやすい悪人を作らずに揉め事を起こしていきたいんですけど、逆を言えばどんな人や物事でも肯定したい意識が自分にはあるんだと今回改めて思いました。だから、敵対するキャラクター・すみれ(江口のりこ)が出てくるけど、彼女には何も非がない。実はテルコと似ているんじゃないかとさえ、原作を読んだときから感じていました。
──ふたりでマモルについて話す場面もありますしね。もうひとつ気になったのが、キレイにする、磨くという行為。掃除のシーンもありますし、テルコは銭湯をブラシで磨き、テルコの親友・葉子(深川麻衣)の母親は、机にこびりついた醤油のシミをずっと拭いている。
特に意識をしていたわけではないですが、物事の消せなさの象徴的行為にはなりましたね。机の汚れって、今さっき付いたように見えて、実は過去からずっとあるんですよね。それがなかなか消せない。改めて映画を観ると、何かの物事への執着に感じますね。僕の前作『パンとバスと2度目のハツコイ』(2018年)でコインランドリーや洗車のシーンがありましたけど、そういった場面は、対人であったり過去であったり、自分が感じている自らの汚れの浄化の比喩です。「映画にコインランドリーの場面は相性がいい」と言われますが、つまりそういうことかなって。
──あ、『パンバス』では主人公の男女が、バスの車内に乗り込んでそのまま洗車機で洗われますもんね。
でもそういうことを安易にやるのは、本当は怖いんですよ。だって『水』をよく扱っている作り手といえば、すでに黒沢清をはじめ、多くの方がいるわけだし。映画に多くの水の描写があってイメージを喚起させていく。それってもう手垢が付きまくっていますよね。僕自身は過去の映画から影響を受けて、自分の映画を作ることへの否定もあるんです。映画からのみ映画を作っている人ってまだ多いから。とは言っても、結局はなんだかんだでオマージュは結構やっていますね。
──オマージュ、ですか。
『愛がなんだ』でも、ナカハラの「幸せになりたいっすね」というセリフは、山下敦弘監督の『どんてん生活』(2001年)へのオマージュですし。まあ、誰にも気づかれないですけど。テルコのラップシーンは、ヴィンセント・ギャロ監督の『バッファロー'66』(1999年)のボーリング場のシーンのオマージュです。
──いや、でも要素としてそういうものがあるけど、やっぱり一方通行の恋愛映画として、今泉力哉節がかなり押し出されていますよ。でも、この映画を観た人に恋愛をして欲しいと思ったりします?
いや、もうそれはご勝手に。最近、とある女性から映画の感想メールをいただいたんですけど。その女性は、2~3年セフレの関係だった男性と一緒にこの映画を観たらしいんですけど、観た後でその男性から「今まで本当に俺は良くないことをしていた。ちゃんと付き合おう」と告白されたというメールで。そういう感想はうれしかったけど、でもひとつ言いたいのは、そういう相手って多分変わらない(笑)。一瞬喜んだとしても、「あまり期待しないように」と伝えました。映画を観たタイミングのテンションだからそうなっているけど、「やったー!」となると後々怖いから、「あまり喜びすぎないでね」と。
(Lmaga.jp)