行定監督「山崎賢人のキャリアからは想像できない役柄」
演劇に打ち込む青年が東京の街角で女性と出会い恋に落ちる・・・。芥川賞作家・又吉直樹の初の恋愛小説が映画化された『劇場』。監督は『GO』(01年)『世界の中心で、愛をさけぶ』(04年)『春の雪』(05年)など、数々の恋愛映画を手掛けてきた名匠・行定勲。
主演に山崎賢人、松岡茉優の、人気・実力とも最高の二人を得て新たな名作が誕生した。来阪した行定監督に話を訊いた。映画の意図をより深く紹介するネタバレバージョンは、7月17日公開・配信日以降に紹介する(7月26日掲載予定)。
取材・文/春岡勇二 写真/南平泰秀
「恋愛を成就するには、途中で諦めなければならないものがある」
──原作のどこに惹かれたのか、教えてください。
読んでいて、身につまされるものがあったんです。「幸せ」ってよく言うじゃないですか。これまでラブ・ストーリーは何度も描いてますが、映画では興行のこともあって主役を美男・美女にすることが多いですよね。
それで作品の印象も美しいものになってしまう。ただ、ラブ・ストーリーにおける「幸せ」って考えたときに、作品のなかに醜さがどう介在しているのかというのが重要だと思うんです。とすれば、もともと題材がロマンス重視よりも、この作品のようにダメな人間が魅力的に書かれているものの方がいいんです。
──確かに美しいばかりのラブ・ストーリーよりも、どこかに人間の醜さが織り込まれている方がより「幸せ」に敏感になるし、作品としても深まる気はします。
成瀬巳喜男監督の作品が好きなのですが、『浮雲』(1955年)なんて森雅之と高峰秀子という絵に描いたような美男・美女が主演にもかかわらず、人間の醜さや弱さがてんこ盛りで、だからこそあの深さを獲得していると思うんです。
でも、いつのまにかああいう深さのある映画は避けられるようになり、ものわかりのいい作品ばかりが求められるようになってしまった。そういう風潮に挑みたいという気持ちはありました。
──その思いのなかで、この原作がぴったりだったと。
そうです。あと、主人公二人の恋に、いわゆる障害というものがないことにも惹かれました。不倫関係でもなければ、どちらかが病に侵されているわけでもない。
この二人の恋は、男があることから降りてしまえばいいのに降りなくて、逆に女の方が降りてしまった、それだけのことなんです。大きな障害はないのにうまくいかない。でも考えたら、これってよくあることですよね。だから普遍的でもあり、こういう物語が撮りたかったんです。
──さまざまな障害がある方がドラマとして盛り上げやすかったり、その恋の本質を描きやすいのに、ですね?
そうなんです(笑)。わかりやすさを求めて人間の弱さや醜さを描くのを避け、さらにわかりやすい障害を設定する、そんな作品とは真逆のものがつくりたかったんです。
たいした障害もないのにうまくいかない恋愛。これは描くのが難しい。ただ、形はあります。男があることから降りずに女が降りたという。男が降りないのは、追い求める理想へのあがきだと思います。
恋愛を成就するには、途中で諦めなければならないものがある。では、なにを求め、なにを切り捨てるべきなのか、その取捨選択が迫られる。これは僕自身も身につまされることだったし、多くの人がそうでしょう。その選択を考えるきっかけになればいいなと思っています。
「僕にとって重要なのは、二人が映画の世界のなかでシーンを理解しているか」
──物語の題材に「演劇」があることも魅力を感じる一因でしたか?
そうですね。僕も舞台の演出もするし、小劇場演劇をやってきたわけではないですけど、小劇場の人たちとは仲もいいし、人もいっぱい知っていますからね。
いまでも打ち込んでいる人もいれば、夢かなわず、やめていった人もたくさん見ています。物語の主な舞台となっている下北沢は小劇場の聖地ですし、やっぱり「演劇」は題材として魅力ありますよね。それに「演劇」が題材であったおかげで思いついたのが今回のラストシーンなんです。
──ネタバレになるのでここでは書けませんが、あの仕掛けを施したラストシーンですね。たしかにあれは「演劇」というモチーフがなければ生まれなかったでしょうね。
原作にも別の素敵なラストシーンは書かれているのですが、映画としてやるのだったら、「演劇」という題材を活かして、主人公ふたりの思いをはっとさせる形で露呈させられないかと考えて、あのラストを思いついたんです。説明ではなく、情感が一番盛り上がるクライマックスで終わらせたかったというのもありました。
──確かにみごとな仕掛けだったと思います。
先輩監督からは「コワイことするなあ」って言われて。そのあと「でも、うまくいってるよ」って褒めてもらいましたけど(笑)。
ただそのとき、もしもお客さんから「どういうことかわからない」って反応されたらどうするんだとも言われたんですけど、僕は最近、わかってもらおうとは思わないようにしているんです。
説明はしたくないし。僕にとって重要なのは、お客さんにわかってもらうことよりも、劇中の二人が、映画の世界のなかでシーンを理解しているか、なんです。理解してくれていれば、そういう芝居になるはずだし、お客さんはそれを観て勝手に解釈してくださればいいと思うんです。
──確かに、わかってもらおうというのは、下手をすると意味の押しつけになりかねないですしね。
さらに言うと、あのラストは原作の行間の具現化でもあると思うんです。僕は後輩の映画監督たちによく言うんです。「小説を映画化するのなら、エンタテインメント小説よりも純文学がいいぞ」って。なぜならエンタメでは逃れられない流れなどがあって、(原稿に)絶対に書いてないとダメなことってあるんです。
でも、純文学は、大事なことは書かれていない行間にこそあって、真実は行間に潜んでいるんです。だから、映画化するなら純文学の方が自由度も高いし、行間を捉えることで作品の本質に近づくことにもなるんです。あのラストは、行間に在った、主人公二人の思いだと考えています。
「物語の本質の悲しさが、二人のおかげで出せた」
──若い男女のラブ・ストーリーにもかかわらず、ベッドシーンのようないわゆる『濡れ場』がないのも、ラストの仕掛けのためだったのでしょうか?
そう考えてもらってもいいのですが、僕はあれは主人公の男の、ある種の基準の反映だと思っています。物語の途中で、彼がほかの女と浮気していそうなシーンがあるじゃないですか。彼はあのようにほかの女にはいくらでも手を出せるんです。
ところが、主人公の女性にはできない。もちろん、二人は若くて一緒に住んでいるのだから、身体の交わりも普通にあるでしょう。でも、彼は彼女を大切に思っているからこそ、性行為に拠らない、依存していないところがあるんです。
性行為を含めて、敬意を抱くと容易にはできないことってあると思うんです。彼女もそんな彼を理解して、どこかで許している。ところが、彼にするとそこで許されてしまうことがなんとなく嫌で、自分にも彼女にも腹立たしくなってしまう。純粋に思い合うがゆえの行き違いというか。まあ、男がダメなんですけどね(笑)。
──そんな二人を山崎賢人、松岡茉優という魅力的なキャストが演じています。お二人は、どちらが先にキャスティングされたのですか?
山崎ですね。山崎がやってくれた役は原作では関西弁で書かれているんです。なので脚本も初めは関西弁で書いたのですが、細かいニュアンスが難しいので、原作者の又吉さんに標準語にしていいかってお尋ねしたんです。そしたらいいと言ってもらえて。
ただ、地方出身者というのは変えないでほしいということで。それで脚本を標準語にしたら一気に配役の可能性が広がって。そんなとき山崎賢人はどうかって話が来て、それは面白いなと。なにしろこれまでの彼のキャリアからは想像できない役柄で、それも山崎賢人に『汚し』をかけるわけですから、そんな山崎を見てみたいとなったんです。
──ご本人もやり甲斐があったでしょうね。
本人がぜひやりたいって言ってくれたんです。それでヒゲは生やせますかって訊いたら、そこから伸ばすようにもしてくれて。彼はよくやってくれました。役柄の嫌味な感じも出せたし。ただ、彼はやっぱり色っぽいですよね。人を惹きつけるものがあります。
──山崎さんが決まり、松岡さんにオファーされたのですね。
松岡は『万引き家族』の公開直後でした。松岡はニュートラルで賢いですよね。彼女がヒロインを演じてくれたら、山崎とのコンビで、これまでにない感じになるなと思いました。
彼女はほんとに役を読み込んできていて、役柄にわざと「あざとさ」を付けるんです。僕はそれを全部取るんじゃなくて、内容に合わせて残すようにしました。その結果、映画のなかのふたりの関係性に沿って、前半は少しあざとさのあった女性が、後半は本音を語るようになる。
つまり、本人は変わりたくないのに、年齢や環境によって変わらざるをえなくなる。一方、男はずっと変わらない。この物語の本質の悲しさが、二人のおかげで出せたと思っています。
──最後に関西フォークのファンとして訊いておきたいのが、劇中で使われているフォークデュオ、ザ・ディラン2の『君住む街』のことです。すごく良かったのですが、あの選曲は?
あれは原作に書いてあるんですよ。だから、又吉さんの『推し』です(笑)。物語にもぴったりで最高でしたね。
※こちらは2020年2月におこなわれたインタビューです。
(Lmaga.jp)