梅田のランドマーク・大阪新阪急ホテル、最後の1日…約100人から大きな拍手で60年の歴史に幕

「100年に1度」ともいわれる大規模な再開発が進む大阪・梅田。そんな梅田のランドマーク的存在「大阪新阪急ホテル」(大阪市北区)が、1月4日の宿泊利用をもって60年の歴史に幕を下ろした。

担当者によると「最終営業日1月4日は、各レストラン盛況でした。ケーキなどを販売する『ブリアン』や、パンを販売する『アンダンテ』には商品購入の行列ができ、午前中にすべての商品が売り切れに。宿泊はインバウンドのお客様が多かったようですが、最後にはじめて宿泊した、という方もいらっしゃったようです」とのこと。営業最終日が近づくにつれ「最後にもう一度」という来館者が増え、ホテルスタッフたちは非常に忙しい毎日を過ごしていたようだ。

◆ いよいよ最後の朝、その瞬間が近づく閉館当日1月5日は、宿泊客用の朝食利用以外はレストランなどの営業はなかったが、館内では朝から記念撮影する人や、寄せ書きをする人たちの姿が見られ、展示コーナーで思い出を語り合ったり、スタッフにねぎらいの声をかける人も。最後の時が近づくと、各セクションのスタッフたちがロビーに整列してチェックアウトする宿泊客たちを見送った。

チェックアウト時間の12時が過ぎた頃、ホテルの正面玄関前に「最後の瞬間を見届けたい」という100人を超える人たちが集結。当初、セレモニー的なものは、予定していなかったそうだが、急遽ホテルスタッフが玄関前に整列し、総支配人の古高智氏が「本日幕を下ろすことになりました。本当にみなさまのご愛顧に感謝しております。今後、系列のホテルがたくさんありますので、そちらもご贔屓にしていただきたい」と挨拶。集まった人たちからは、拍手が送られ、「ありがとう」など感謝とエールの声がけもあった。

そして、営業終了を告げるサインが掲出され、深くお辞儀をするスタッフたちへの大きな拍手に包まれながらシャッターがゆっくりと閉まっていく。昭和、平成、令和と梅田の街を見守り続けた老舗ホテルの最後の瞬間は舞台のように「幕を下ろす」と言う表現がぴったりだった。

11年間、同ホテルで勤務してきた広報・上野藍さんは「入社以来ずっと自分の居場所だった、このホテルが明日からなくなるのが信じられない。従業員でありながら、私もお客様と同じ『大阪新阪急ホテル』のファンのひとりでした。これから閉館作業のあと、それぞれの勤務先に異動になります。新しい環境で頑張っていきたい」と語った。

同ホテルの最後を見守った兵庫県川西市のご夫婦に話を聞いた。「先日も来て、しっかりお別れをしたつもりが、やっぱり最終日も!と思って来ました。主人が40年ほど前に、ホテルの喫茶店『レインボー』(2019年に閉店)で学生時代にアルバイトしていて、私の学校の先輩とバイト仲間だったことがきっかけで知り合いました。私たちはこのホテルがなければ出会ってないし、結婚もしていないので、感謝の気持ちしかないです。ずっと大好きなホテル。本当にさみしいです」。

なお、ご主人は、この日お見送りをするスタッフの中に、アルバイト時代に当時新入社員だった方を見つけて久々の再会をしたようで、懐かしい気持ちでいっぱいだったそう。

◆ 閉館を惜しむ人たちの寄せ書きと、館内の貴重な資料ともにホテルの歴史を振り返る結婚と言えば、「寄せ書きコーナー」にも多数のメッセージが寄せられている。「1996年にチャペルで結婚式をあげ、ラストデイに宿泊に来ました。またいつか再開してくださるのを楽しみにしています」「42年前に結婚式をしました。とっても幸せなお式でした。今でも仲良く幸せです」「妻とはじめてお見合いしたのがブリアンでした。最後に子供たちと一緒にブリアンでお茶をして、想い出作りができました」等、お見合いや結婚式の思い出を書き残している人がとても多く、同ホテルがたくさんの人の華やかな「ハレ」の場であったことを感じさせる。

また「小さいとき、誕生日に家族でオリンピアに来て食事するのが楽しみでした」「オリンピアで家族みんなおなかいっぱい食べました! 最高!」「最後の日に家族でオリンピアで食事をしました。ホテルもオリンピアも再オープンしてください、待っています」など、バイキングレストラン「オリンピア」での思い出や復活希望のメッセージも多数寄せられており、ファミリーを中心に根強い人気を感じさせた。1964年の開業当時、大阪では「バイキング」形式は大変珍しく、爆発的な人気となったそう。現在の関西でも多数ある「ホテルビュッフェ」の先駆け的存在だったようだ。

さらに「宝塚ファンになって20年、新阪急ホテルも夢の世界の一部でした。今までありがとう」「大劇場の緞帳が大好きでした」「大好きだった峰さを理さん、南風まいさんのディナーショーにきたのがはじめてで、忘れられません」など「宝塚歌劇」の思い出を寄せた人も多い。

「新阪急ホテル25年史」によると、鳳蘭ら多くのタカラジェンヌがディナーショーを同ホテルで行っただけでなく、1964年の開業パーティーで天津乙女さん(当時宝塚歌劇団理事)が「三番曳」を舞い、またその後も25周年の記念式典で松本悠里さん(当時宝塚歌劇団)が日舞を披露した、という記録が残っており、歌劇との関係も非常に深いホテルでもあった。

同ホテルが開業した1964年当時、宿泊は1800円、バイキングはひとり1000円。ホテル周辺に高い建物はなく、今の梅田の街も全く違う景色だった。今後「阪急梅田駅」一帯は大規模な再開発が予定されており、60年間たくさんの人をもてなしてきた同ホテルの建物は1969年開業の「阪急三番街」、1972年開業の「阪急ターミナルビル」などとともに今後取り壊しとなり、新たな姿に変わる見込み。なお宿泊に特化した「新阪急ホテルアネックス」の営業は続く。

ひとつの時代が終わり、さらに大きく変わっていく梅田の「一等地」の景色。多くの人に愛された同ホテルの思い出とともに、今後新しく生まれ変わる「阪急梅田駅」界隈の未来に期待したい。

(Lmaga.jp)

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