栄光のリングを持つ強打の4番打者
現在、メジャーは地区シリーズ(5試合制)が各地で行われている。ワールドシリーズ出場に向かって、どのチームもラストスパートに入った。
横浜にもWシリーズを制覇した男たちに贈られる“リング”を持った男がいた。「強打の4番打者」として活躍したG・ブラッグス外野手だ。彼はレッズ時代の90年、アスレチックスとのWシリーズ制覇に貢献した実績を持つ“優良助っ人”だった。
93年、近藤昭仁新監督率いる横浜ベイスターズに助っ人として入団した。オープン戦当初はローズもそうだったが、ブラッグスの打撃を見て、「これは打つ」と見る人はほとんどいなかった。
実際、開幕から深刻な打撃不振に陥った。しゃがみ込んで頭を抱えた姿を何度か見た。私は彼に「焦ることはない」と話した。打者としての実力を確信していたからだ。
5月3日の阪神戦からヒットが出ない。外野席からはブーイングの嵐だ。しかし、13日のヤクルト戦、34打席ぶりにやっとヒットを放った。
ブラッグスはあることに気づいていた。日本の投手はうまくボール球を振らせる、ボール球に手を出さないことだ。これを契機に打率は上昇し、ホームランも増え始めた。
6月終了時点でセ・リーグの最多安打75を記録し、本塁打も2位。私は近藤監督やコーチに感謝した。
不振のどん底にあっても、黙って使い続けた辛抱と信頼感が本来の姿に戻したのだ。メジャー経験を持つ選手にとって、信頼はエネルギーの源なのだ。
ブラッグスの生まれ故郷はロサンゼルスから車で北へ1時間ほどの田舎町だ。大家族で、兄弟は男4人、女7人。父親は市役所の職員で母親は教育熱心だった。暮らしは楽ではないのに、両親は男の子供はすべて大学に行かせた。
高校時代にヤンキースから誘われた。断り、プロ入りが許可される大学3年終了時にドラフト2位でブルワーズに入団した。契約金5万ドル。ルーキーとしては破格だ。
私が彼を見たのはマイナー時代だった。強打・強肩・快脚。192センチ、100キロの巨体でハッスルプレーが売りだ。うっとり眺めるだけで、手を出せる選手ではなかった。
レッズ時代。飛球を追ってリグレー球場の外野の煉瓦塀に激突したとき、本人は無傷だったが塀が壊れたと、当時話題になった。本人は「あれはウソだよ」と笑っていたが…。
また、空振りした時、バットが背中に当たって折れた話もある。これは本当らしい。なにしろ、手の平が30センチ、足が32センチ、抜群のパワーの秘密もこのへんにあるのだろう。
だが、チャンスがやってきた。91年の秋、某代理人から「レッズは出す気がある」と連絡があった。しかし、ピネラ監督が「絶対出さん、あれを出すなら辞める」と言いだし、その時は手を引いた。シーツ獲得は、その代わりだった。
しかし、球団にその気があると知って、92年渡米したとき徹底的に調査した。問題はなかった。彼はこの年すでに七年目に達し、FAの資格を有していた。右投手の場合はしばしば先発を外されることもあり、本人も動く気持ちはあると確信した。
こうなれば、突進あるのみだ。“体重3キロ減”の代償を払って契約にこぎつけた。契約交渉の場所はビバリーヒルズのイタリアンレストランだったが、何を食べたか記憶にない。ただ、マナ板のような手で握手され、しばらくシビレがとれなかった。
横浜入団時、彼に背番号「44」を勧めた。SF・ジャイアンツのスーパースター、W・マッコービーの背番号だ」と言うと、「いや、彼はオレのアイドルだった。あの人の背番号ではビビるよ」と尻込みしたが、結局、「44」に落ち着いた。
メジャー関係者の誰もが彼を「HE IS CLASS」(良識もあるできた男)と言った。
さて、今シーズン「栄光のリング」を手にするのはどのチームの男たちなのだろう。佳境に入った熱戦を見ながら、ふとブラッグスの姿を思い出した。
(デイリースポーツMLB解説委員・牛込惟浩)
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牛込惟浩(うしごめ・ただひろ)1936年5月26日生まれ、78歳。東京都出身。早稲田大学を経て64年、大洋ホエールズに入団。渉外担当としてボイヤー、シピン、ポンセ、ローズなど日本球界で大活躍した助っ人たちを次々と獲得し、その確かな眼力でメジャー球界から「タッド」の愛称で親しまれた。2000年に横浜ベイスターズを退団。現在はデイリースポーツMLB解説委員。