手を焼いたライオン丸・シピン(上)
長髪、モミあげからアゴにかけて薄茶色のヒゲを生やしていたライオン丸こと、ジョン・シピン(1972年~77年在籍)の名を覚えているだろうか。
183センチ、80キロの均整のとれた体。送球の速さは投手並み、打撃もシンで捉えたときはボールがピンポン球のように外野席へすっ飛んでいった。
すばらしい選手だったが、実に扱いにくい選手でもあった。ヒゲを生やす助っ人は珍しくないのだが、シピンはその服装とともにヒッピーを思わせる男だった。
そう、シピンにはアメリカの若者というより、やはりヒッピーといったところがあった。
シピンの生まれ故郷は、カリフォルニア州からやや南下したサンタクルス海岸に近い、平野部にあるワトソンビルという町だ。
太平洋に面し気候は温暖で、1年を通して穏やかな天候だ。日本人、フィリピン人、中国人、ポルトガル人それにイタリア人と多彩な民族が集まっている。標準的な英語を話すカリフォルニア州の町だけに、彼らの英語はきれいでわかりやすかった。
初めてシピンと会って私が自己紹介したとき、「ウシゴメ?、オレの子供のころ仲良くしていた日系の男の子が、マイク・ウシゴメといった。なつかしい名前だ」と言ったのも、彼の少年時代の環境を物語っている。
シピンはこの地の高校で野球をやっているとき強肩、強打を買われてセントルイス・カージナルスにスカウトされた。
当時、チームの幹部からも有望視されていた。だが、シピンにとって幸か不幸か、そのころサンディエゴ・パドレスが新チームとして加盟したため、エクスパンション・ドラフト(チーム数が増えたため緊急的に行うドラフト)によって、新チームのために各球団はマイナー・リーグのチームをふくめて2~3名の選手をそれぞれ拠出しなければならなかった。
シピンはその拠出選手の1名に選ばれてパドレスへ移った。そこまではよかったが、パドレスでも大リーグに昇格しながら試合中に併殺プレーで足を引っかけられ、腰を強打。シーズン後半を棒に振ってしまった。
たび重なる不運に会ったが、腰もよくなり、次のキャンプでは好成績をあげたが、マイナーのハワイ・アイランダースへ落とされた。
普通ならシピンは大リーグへ昇格してもおかしくない選手で、実績も残していた。それがあと一歩で外されたのは理由がある。
サンディエゴ・パドレスの監督に嫌われたからだ。この監督はいわゆる古きよきアメリカ人というタイプで、ヒゲや、私服もキチンとしていないヒッピーのようなタイプをひどく嫌った。
シピンも何度か注意されたらしいが、一向に聞き入れなかったようだ。71年(昭和46年)、前にも触れたボイヤーと一緒に、ハワイのアイランダースでプレーしていたのはそういうわけだった。
そのシピンと当時の大洋ホエールズは、ひょんなことから接点が生まれた。その71年の秋、私が教育リーグ参加のため渡米したときだ。
たまたま、アリゾナのメサで教育リーグの試合があって、私も行っていたのだが、練習をみていた私に、サンディエゴ・パドレスのスカウト部長が話しかけてきた。
「選手を探しているのか」
「いや、そういうわけでもないが」
もう1人打てる内野手を欲しいと思っていたのだが、うかつにこちらの立場を話すわけにはいかない。
「もし、探しているなら、ウチにいい選手がいる。出してもいい」
「ほう、どんな選手だ」
「ジョン・シピンという内野手だが、これはいいぞ」
選手を獲ろうとして相手方と接触するとき、『商取り引きというのは、こういうことなのだろうなあ』と、外資系の会社で働いていた友人の顔をよく思い出したものだ。
「出してもいい。いい選手だぞ」というが出していいという理由は、まず口に出さない。しかも、シピンという名は全く聞いたことがなかった。
私の顔を見ながら、ボブは
「フェニックスに3Aの連盟事務所がある。おまえのホテルの近くだから、そこで調べるといい」と言った。
試合後、私は事務所へ行って、シピンの資料をチェックした。
ハワイ・アイランダースの71年度成績を見ても、本塁打20本以上、打率も3割台を打っている。これなら合格だ。さっそく東京の球団事務所へ電話を入れると、「そういう選手ならとれ」という。
このとき、シピンはウインター・リーグに出場のためにプエルトリコへ行っているはずであったが、あれこれ連絡を取っているうちに、どうやらすぐ引き揚げてきたらしい。
とにかく自宅へ電話を入れた。「釣りに行っている」と言う。
海釣りの好きな男で、大洋ホエールズと契約して来日した際、スポーツ紙に、“バットの代わりに釣竿を持ってきた”と大きく書かれたくらいだ。
やっと連絡が取れ、こちらの意向を伝えたところ
「ありがたい話だが、自分は大リーガーになるのが夢である。しかし将来もし日本へ行くことがあれば、そのときは必ず大洋へ行くから」としっかりした口調で語った。
こりゃ難しいと、私は判断した。駆け引きではないものが、シピンの口調にあった。
私はすぐ球団に電話を入れて伝えた。だが、球団では、「どうしても獲れ」と、言ってきた。
私はシピンとの会話から、たぶん返事は変わるまいと思い、一度帰国して再交渉に臨むことにした。
ボイヤー編で書いたが、この帰国の際にハワイに寄ってボイヤーと正式契約を交わしたのだ。
シピンもアイランダースでボイヤーとともにプレーをしているのだが、アイランダース側にはシピンの“シ”の字も口に出さなかった。
シピンの保有権は、サンディエゴ・パドレスが持っている。そのシピンを預かっているアイランダースが、これは商売になると考えて交渉に割り込んでくるかもしれない。
筋道からは問題はないのだが、なんだかんだと口実を設けて、少しでもアイランダースにも金を払わせようとするに違いない。
だから、私はシピンのことは一切口にしなかった。帰国した私は、パドレスとの交渉に入った。シピンは“ノー”と言っているが、保留権を持つパドレスは、「出してもいい」と言っている。
シピンの説得はひとまず置いておき、肝心のパドレスとの交渉をまとめる必要があった。こっちのほうは2万5千ドルのトレードマネーを払うことで決まった。
あとはシピンの説得だが、これは難物だと、考えただけで頭が痛くなる思いだった。=続く
(デイリースポーツMLB解説委員・牛込惟浩)
◇ ◇
牛込惟浩(うしごめ・ただひろ)1936年5月26日生まれ、78歳。東京都出身。早稲田大学を経て64年、大洋ホエールズに入団。渉外担当としてボイヤー、シピン、ポンセ、ローズなど日本球界で大活躍した助っ人たちを次々と獲得し、その確かな眼力でメジャー球界から「タッド」の愛称で親しまれた。2000年に横浜ベイスターズを退団。現在はデイリースポーツMLB解説委員。