“復讐心”に燃えた元阪神パチョレック
ナ・リーグ中地区のミルウォーキー・ブルワーズが剣が峰に立っている。
夏場までナ・リーグ中地区首位をキープしていたが、8月31日を境に陥落。80勝76敗(現地21日現在)で、同リーグのワイルドカード争いの第3位。パイレーツとプレーオフ進出を巡って、しのぎを削っている。
私はスカウトという仕事から、優れた助っ人をブルワーズから獲得してきた。中でも、“復讐心”に燃えたアメリカ魂を見せたのは、88年、大洋ホエールズ(現DeNA)に入団したJ・パチョレック外野手だった。
右方向への打撃を得意とした右の好打者だった。しかし、来日直後は散々な評価を受けた。キャンプではボールがバットの芯に当たらない。古葉監督(当時)が「使いものにならん」と切り捨てた。
この発言で落ち込んだ。新聞報道でプレッシャーが強くなっていた。そこにショッキングな発言だ。一時は食事が喉を通らず、ノイローゼみたいになった。私はなだめ、そして激励した。
彼は開幕の中日戦(ナゴヤ球場)、第1打席で中堅本塁打を放って上昇のきっかけをつかんだ。一度不振の時期もあったが、この1年目、彼はみごとな打撃を見せた。
首位打者は逃したものの、3割3分2厘の高打率。165安打はセ・リーグの最多安打でチーム不動の4番の座を獲得した。2年目も好成績を残し、3年目は須藤監督の下で、首位打者になった。
4年目、私は成田空港にパチョレックを迎えに行き、彼の体を見てオヤッと思った。明らかに太っていた。前年の好成績が彼から緊張感を奪っていた。
九州での巨人戦で、桑田真澄投手の内角球を左手首に受けた。傷は軽傷ながら、痛みは残った。それでも休もうとせず、そのまま試合に出場していた。
左手首の痛みが満足なバッティングをさせず、不振の日々が続いて、須藤監督は私に、「代わりの選手を獲って欲しい」と言った。このままではベストオーダーが組めない。現場トップの態度はすぐ選手に伝わる。
ある日、「監督の態度が去年と全然違う。オレはアメリカへ帰って、もう一度トライしてみたい」と直訴してきた。「いまアメリカに帰って、それで通用すると思うか」と言ってやった。
思い詰めていた。「とにかく大洋のユニホームを着ている間は、キチンと仕事をやってくれ」と言い聞かせ、その場を納得させた。
パチョレックは後半頑張り、打率を3割台に乗せた。このまま丸く収まればいうことはなかったが、こうした不穏な動きはたちまち他球団に漏れる。
巨人と阪神から誘いがかかったのは、シーズン終わり近くだった。結局、阪神入りが決まったのだ。
阪神1年目(1992年)のパチョレックが、どれほど活躍したかはファンの皆さんも覚えておられると思う。リーグ最多の159安打、ホームランは来日以来最高の22本で、タイガース躍進の原動力となった。
横浜戦となると、パチョレックは、暴れまくった。目の敵にしている、というのはまさしくこういう姿なのだと、私は複雑な思いで眺めていた。
あまりに横浜相手に打つので、「なぜ、同じリーグに出したのだ」と、ファンからクレームをつけられたこともあった。パ・リーグに適当な相手がなかったし、また、プロというのはこれでいいのだと思っていた。
ただ彼を阪神へ出したことについては、もう1年辛抱してくれればという思いもあったが、死球禍もあったし、なによりもパチョレックの気持ちがチームから離れていた。現場の判断もやむを得なかった。
ブルワーズと聞くと、私は即座にJ・パチョレックを思い出す。スカウトにとって簡単に獲得できる選手ではなかった。
(デイリースポーツMLB解説委員・牛込惟浩)
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牛込惟浩(うしごめ・ただひろ)1936年5月26日生まれ、78歳。東京都出身。早稲田大学を経て64年、大洋ホエールズに入団。渉外担当としてボイヤー、シピン、ポンセ、ローズなど日本球界で大活躍した助っ人たちを次々と獲得し、その確かな眼力でメジャー球界から「タッド」の愛称で親しまれた。2000年に横浜ベイスターズを退団。現在はデイリースポーツMLB解説委員。