モンタナの聖者、クレスニック(中)
この“ヨハネの子孫”はひどくケチで、ムダな金は一円でも出さない。
これは日本に来た外国人選手の間でも有名らしく、私がアメリカで会った元西鉄(現西武)のロイも、話がクレスになったとたん、「ヤツはタイト(ケチ・しまり屋)な男だよ」と、言った。
しかし、単に金に執着するケチケチ男でないことが後でわかって、あらためてクレスを見直した。いずれ後で触れる。ともかく、練習場でのバッティングで合格になった。
結局、年俸が約9000ドル、当時1ドルが360円だったから324万円(推定)という金額で契約できた。だが、やっかいな問題が起きた。
なんと、肝心のミルウォーキー・ブレーブス(当時)になんの断りもなくアメリカを飛び出してきたのだ。
大洋側はどうせクビになったのだろうと思っていたのだが、どうやら保有権はブレーブスにあったのだ。
クレスが日本のプロ野球チームに入ると知って、ブレーブスからクレームがついた。
早速、本人がブレーブスと交渉したのだが、先方では見切りをつけていたのか、500ドル(18万円)のトレードマネーであっさりOKしてくれた。
いまから見ればウソのような話だが、当時の“日米関係”はそんな鷹揚(おうよう)なところがあった。
さて、チームの一員となったクレスは、練習でもポンポンとスタンドに放り込み、「こいつはいける」と、三原監督を喜ばせた。
クレスは後半戦のほとんどをスタメンで出場し、74試合で打率・306、13本塁打を記録した。文句なしの合格だった。
そして2年目の1964年(昭和39年)、139試合に出場、打率・266と3割を切ったものの、36本塁打を打った。
この36本は75年(昭和50年)の田代富雄と並んで大洋球団の記録である。「クレスはケチな男」と言われていたと書いたが、子供のころから金に苦労したために、物や金を人一倍大切にする男だということが次第にわかってきた。
私が大洋球団に就職したのはクレスの入団2年目で、この年からクレスにつくようになったのだが、彼は日本の野球をナメたり見くだすような男ではなかった。
金に対する執着は強かったが、財布に入れたら二度と出さないといった金の亡者ではなかった。それどころか、熱心なクリスチャンで、人のために喜んで金を提供する男だった。
ある日、ステーキ店へ夕食をとりに行ったときのこと。私が脂身のところを残すと、「もったいないことをするな。そこはおいしいし、滋養になるのだ」と言う。「いや、脂肪分をとり過ぎると体に悪いから」と言うと、「神が与えてくれた食物を粗末に扱ってはいけないのだ」と説教された。
「ウシ、オレは若いころ貧乏で汽車に乗れず、一時間以上も歩いたことが何度もある。食べ物も買えず、海岸を歩きながら砂を口に入れてかんだこともあった。人間は苦しみから脱け出すと、すぐそのときのことを忘れてしまう。私はそういう人間にはなりたくないのだ」と、しんみり語った。
私自身、幼くして両親を失い、大学を出るまでそれなりの苦労もし、金の大切さを知っているつもりだったが、クレスの言葉を聞いて、ズキンと胸が痛んだ。
ところが、クレスにとって不運なことに、南海ホークス(現ソフトバンク)から、「スタンカを獲るなら世話するが」という話が持ち込まれた。
スタンカは、60年(昭和35年)南海入りし、64年のリーグ優勝、阪神との日本シリーズの勝利に大活躍した右腕投手だ。
2メートル近い長身から投げ下ろし、その重い速球は、来日外国人投手の中でNo.1と言われた。それが65年(昭和40年)のシーズン中、自宅の浴場で長男がガス漏れから亡くなり、傷心のあまり南海を去った。
しかし、帰国して気持ちの整理もつき、再び日本でプレーをしたいと南海へ言ってきたのだ。「ウチはもう獲らない。しかし、三原さんのほうで要るなら」という話で、三原監督はすぐOKを出した。
66年(昭和41年)春、オープン戦で長崎に行くと、突然三原監督に呼ばれて、「クレスを東京へ返す。近鉄へトレードが決まった」と言う。
『スタンカの獲得が決まったのだな』と、私はすぐに理解できたが、さて、すでに今季の契約を済ませ、オープン戦まで連れてきている。
そのクレスにどう話せばいいのか。しかし、「東京で平山スカウト部長が本人に説明する」と言われ、とりあえず連れて帰京した。帰る途中、クレスは「なぜ、急に東京に帰るのか」と、何度も聞くし、しまいには「オレのオヤジが病気でもしたのか」と、心配そうな顔をする。
「いや、私もわからない。とにかく東京に行って平山スカウト部長から話を聞くことになっている」と苦しい言い訳をしながら、私は、これがプロの世界の厳しい現実なんだと、胸が締め付けられる思いだった。
結局、クレスは近鉄へトレードということでこの一件は収まり、この66年の前半はクレスの活躍で近鉄は躍進した。
(デイリースポーツMLB解説委員・牛込惟浩)
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牛込惟浩(うしごめ・ただひろ)1936年5月26日生まれ、78歳。東京都出身。早稲田大学を経て64年、大洋ホエールズに入団。渉外担当としてボイヤー、シピン、ポンセ、ローズなど日本球界で大活躍した助っ人たちを次々と獲得し、その確かな眼力でメジャー球界から「タッド」の愛称で親しまれた。2000年に横浜ベイスターズを退団。現在はデイリースポーツMLB解説委員。