恩師と慕われた喧嘩のボイヤー(上)
私がこれまでアメリカでスカウトした選手は30人近い。
その中で、これまで最高の守備を見せたのが、1972(昭和47)年に大洋ホエールズ(現DeNA)へ入団したクリート・ボイヤー三塁手だった。
大リーグの本塁打王、ハンク・アーロンは、短い期間ながらボイヤーと同じチームでプレーしているが、彼の著書で、「アメリカ大リーグのNo・1三塁手」と評価した。また、ドジャースのオルストン監督の著書は、ボイヤーの守備を手本として解説している。
このボイヤーは、まぎれもなくバリバリの大リーガーだった。なぜ、そんな選手が大洋に入団したのか。
当時の日本プロ球界は、米球界の実情をキャッチする力もなく、大洋も彼ほど有名な大リーガーが、たとえ事情があったにせよ、マイナー・チームに落とされているなど知るよしもなかった。
事情がわかったのは全くの偶然だった。71年10月、ハワイ・アイランダースから球団幹部が来日した。この春、大洋がアイランダースからJ・ワーハス三塁手を獲得した。
ワーハスは「メジャー経験がある好選手」の触れ込みで獲得したが、期待外れに終わって1年で解雇。その後始末のために球団幹部がやって来たのだ。
「では、その代わりに」と何人かの名を挙げたが、どれもパッとしない。「それでは」と最後に球団幹部が挙げたのがクリート・ボイヤーだった。
ボイヤーのことは別当薫監督(当時)も私も、素晴らしい内野手という評判を聞いていたから、乗り気になった。しかし、なぜ、ボイヤーほどの選手がマイナーのアイランダースにいるのか。
理由はボイヤーがアトランタ・ブレーブスのフロント批判をやり、それが原因でP・リチャードGMとトラブルを起こしたことからだった。
他の大リーグチームはボイヤーに手を出さない。“喧嘩のボイヤー”の異名通り、気が短い。だから他チームも敬遠したのか。
事実はこうだった。ボイヤーが「アトランタ・ブレーブスは満足なコーチが1人もいない」と、痛烈なフロント批判をした。
リチャードGMはボイヤーを呼びつけた。
「本当に、あんなことを記者にしゃべったのか」
「ほんとうだ」
「なぜだ」
「事実ではないか。オレはチームのために事実を言ったまでだ」
「それなら言うが、おまえがフットボールに金を賭けていることを知っている。もし、これが世間に知れたらどうなると思う」
「辞めさせてもらう」
選手がフットボールなどで賭けをやることは禁止だが、多くの選手がやっていることで、お遊び程度なら許容範囲だった。
それを持ち出したのはボイヤーに謝罪させようと思ったからだろう。だが、ボイヤーは後に引かず、問題がこじれた。
ボイヤーを応援したのは凄腕の弁護士で、交渉の結果、クビは切られたものの、フリーの資格を手にした。
フリーならどの球団も交渉OKだ。複数の大リーグチームが獲得に動いた。
これを知ったリチャードGMは、他チームに入られては大変と、各チームのオーナーに、「こういう理由で出したのだから、どうかボイヤーに手を出さないでもらいたい」と根回しをしていた。
この事情をキャッチしたハワイ・アイランダースは、これ幸いと必死にボイヤーを口説いた。アイランダースは独立系のマイナーチームだ。
大リーグのどこともつながっていないから交渉は自由だ。なかなかウンと言わないボイヤーを口説きに口説いて、やっと3カ月契約で手に入れた。
ボイヤーほどの選手が出場すれば観客数が増える。そのうちいい売り込み先が見つかれば、高いトレードマネーで儲けられる。
マイナーのチームはこうして商売を成立させている。アイランダースにとって、「いい内野手がほしい」という大洋の話は、渡りに船だった。
大洋は検討を重ねた結果、「ぜひ獲ろう」とアイランダースと仮契約を結んだ。
ボイヤーの両親(父・フランス人、母・ドイツ人)は米国に渡ってミズーリ州のアルバという人口500人ほどの小さな町に住みつき、苦しい暮らしの中で男6人、女7人と13人の子供をもうけた。よほど、多産の家系だったのだろう。
父親は野球が大好きで、子供たちが野球で遊んでいると、ニコニコしていた。男兄弟6人もそろって野球が大好きで、なんと全員がプロ入りした。
長男のクロイド・ボイヤーは、ヤンキースで通算26勝を挙げた投手だ。次男のケンはカージナルス時代、花形スターの三塁手だ。
64年にカージナルスとヤンキースがワールドシリーズで戦ったとき、カージナルスのケン(次男)、ヤンキースのクリート(四男)が顔を合わせ、「兄弟シリーズ」と話題になった。試合でも、最終戦でクリートが先制のホームランを打つと、最終回には兄のケンが逆転サヨナラ満塁ホームランを放ってファンを狂喜させた。
大リーガーになったのは長男のクロイド、次男のケン、そして四男のクリート・ボイヤーの3人だった。(デイリースポーツMLB解説委員・牛込惟浩)
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牛込惟浩(うしごめ・ただひろ)1936年5月26日生まれ、78歳。東京都出身。早稲田大学を経て64年、大洋ホエールズに入団。渉外担当としてボイヤー、シピン、ポンセ、ローズなど日本球界で大活躍した助っ人たちを次々と獲得し、その確かな眼力でメジャー球界から「タッド」の愛称で親しまれた。2000年に横浜ベイスターズを退団。現在はデイリースポーツMLB解説委員。