恩師と慕われた喧嘩のボイヤー(中)
大洋(現DeNA)は1971年の11月末、ハワイのホノルルスタジアムの事務所でクリート・ボイヤーと正式契約を交わした。
ボイヤーは数カ月前までバリバリの大リーガーだっただけに、面構えといい、並みの選手とはまるで違い、圧倒された。
「なぜ、日本で働きたいと決心したのか」という問いに、こう答えた。
「オレは力が落ちてハワイに来てしまったわけではない。むろん、金は欲しいが、金よりもオレにまだ力があることをアメリカの連中に見せてやりたいんだ」。
彼の異名は“喧嘩のボイヤー”だったが、安っぽい妥協はしたくない。こんな気迫が感じられた。
「年俸2万5千ドル〈900万円〉で契約したい」という私の提示に、ボイヤーは、「それで結構」と言った。ボイヤーは間もなく35歳になろうとしていた。
実はこの時期、大洋は、“ライオン丸”と日本のファンに呼ばれたもう1人の外国人選手・シピンを入団させている。
ところが、シピンは歳が若く、大リーグの経験は乏しいが、素晴らしい長打力を持っていた。このため、ボイヤーより1万ドル高い年俸を払わされていた。
来日してこの事実を知ったボイヤーはムクれ、「シピンはハワイのチームでオレがいろいろと教え、面倒を見てきた男だ。あのシピンよりオレのほうが安いのは納得できない」と言いだした。
もっともだった。しかし、外国人選手の年俸は、獲得の状況が有利だった場合と、競争相手が重なった時では必ずしも実力に正比例しないこともある。商品価格の流動性と似ている。
シピンは歳も若かったし、上り坂の選手だったこともあり額がハネあがった。そんなことをボイヤーに説明してもはじまらない。
「それはわかる。しかし、ハワイでこう言ったのを覚えているだろう?オレは金で動くんじゃない。オレをクビにしたアトランタ・ブレーブスに、オレがどれほどの力を持っていたかを思い知らせてやりたい、そう言ったはずだ。それに東京に来たとき、球団でシピンを獲るかどうか迷ったのを、あれはいい選手だ。獲った方がいいと言ったじゃないか」
ここらがボイヤーの人柄のすばらしさだ。私がそう言うと
「いや、思わず大人気ないことを言ってしまった。悪かったな」とすぐこちらの条件をのんでくれた。
ふつうの外国人選手なら前言がどうあれ、これはおかしいと思えは徹底的に主張する。
最近は日本のプロ野球界もそう簡単に引き下がらなくなったが、当時の外国人選手は、日本相手では自分たちが売り手市場だという気持ちが強かった。
翌日からボイヤーの態度がガラリと変わった。言うべきことはハッキリ言うが、こちらが理由なり事情を明確に説明すると、「OK、よくわかった」と、納得してくれるようになった。
彼が初めて日本へやって来た日のことだ。ホノルルで正式契約を交わした際、「自主トレの始まる1月15日まで来日してほしい」と伝えた。
ところが、20日過ぎてもボイヤーは姿を見せず、私はたまりかねて、アトランタの自宅へ電話を入れた。不在だった。彼が経営するクラブに電話してやっと連絡が取れた。
なにか不満でも?こちらは不安だった。しかし、そんなに早く来日しても仕方がないと思っていたらしい。
「約束した以上は来て欲しい。オレの立場がなくなる」と言うと、「よし、わかった。あす出発する」と。
到着当日の羽田空港には大勢の報道陣が詰めかけた。やがて姿を現したボイヤーを見て、それまでざわついていた報道陣が一瞬、水を打ったようにシーンとなった。
彼がこれまで日本に来た、どの外国人選手よりも堂々とした風格を漂わせ、見ただけで、「これこそ本物の大リーガー」と感じさせたのだ。
報道陣に来日の心境を聞かれたボイヤーは、ニコッと笑って、「日本はずいぶん人の多い国だな」と言った。
ボイヤーという人間を、これほど端的に表したユーモアを知らない。人間の厚みというか深さというか。大勢の記者たちもまた感嘆していた。
大洋ナインも同じ反応だった。言葉はわからないのに、ボイヤーを一段格上の人間と見るようになった。
“助っ人”はいわば賞金稼ぎのようなもので、「チームのために」とか、「チームを優勝させるために来た」などと言う。けれども、日本の選手に尊敬され、慕われた“助っ人”は私の知る限り、このボイヤー1人だ。
91年(平成3年)限りでユニホームを脱いだ田代富雄内野手を覚えておられる人もいるだろう。
藤沢商高出身の大型三塁手で、通算277本塁打を記録した大洋の主力打者だった。この田代が、「わたしの恩師」と言っているのがボイヤーだ。
入団して3年目に、これ以上は伸びないだろうとトレード話が持ち上がった。その時、「これは将来主軸打者になれる」と反対したのがボイヤーだった。
そればかりか一軍昇格を提案した。長打力はあっても、確実性に欠けていた。周囲は首を傾げた。だがコーチ兼任のボイヤーに対する信頼は絶大で、田代は一軍入りした。
その田代、ファーム時代に一度、ボイヤーに接している。三塁手としての守備力を鍛えるため、捕手の防具を着けさせ、コーチが強いゴロを打って捕球させていた。そこへボイヤーがやって来た。
「ウシ、これはなんだ、あの選手は捕手なのか」
「いや、あれは内野手で、捕球の練習をしている」
「それはいかん」
すぐに止めさせた。
ボイヤーはコーチにこう言った。
「これではいくら強いゴロを捕球しても、少しも怖くない。試合で三塁手を襲う強いゴロは、だれでも怖いものだ。しかし、その恐怖の一瞬の中のタイミングこそ、三塁手が身につけなければならないことなのだ。恐怖を感じないような捕球では、いくらやっても同じだ」
日本には日本なりの練習がある。精神主義と言われる日本流の練習も、すべて悪いとは思わない。
日本のプロ野球から離れた外国人選手は、日本野球をあれこれ批判するが、中には日本の練習法がいいとして、その一部を取り入れているケースもある。
ボイヤーの考え方はこうだ。
「捕球練習でもっとも重要なポイントは、ただ1つ、タイミングだ。そのタイミングを覚える基本練習は、ゆるいゴロを繰り返し捕球するのが一番効果がある。それも正面ほど難しいものはない」
一流に達した選手ならともかく、まだ成長過程にある若手には、緩いゴロを何度も捕らせることがベストの練習だというのだ。
現役時代“牛若丸”と異名をとった元阪神の吉田義男さんは、ボールを壁にぶつけ、返ってくるゴロをキチンと捕る練習を欠かさなかったそうだ。現役時代に名内野手で有名だった方の中にも、同じことを言う方がいる。さらに、ボイヤーはこうも言った。
「もう1つ、視線の高い姿勢では、決していい捕球はできない。できる限り視線をボールより下に置くことを心がけてほしい」。=続く
(デイリースポーツMLB解説委員・牛込惟浩)
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牛込惟浩(うしごめ・ただひろ)1936年5月26日生まれ、78歳。東京都出身。早稲田大学を経て64年、大洋ホエールズに入団。渉外担当としてボイヤー、シピン、ポンセ、ローズなど日本球界で大活躍した助っ人たちを次々と獲得し、その確かな眼力でメジャー球界から「タッド」の愛称で親しまれた。2000年に横浜ベイスターズを退団。現在はデイリースポーツMLB解説委員。