手を焼いたライオン丸・シピン(下)
ユニホームを着たときのシピンは、とにかく文句の多い男だったが、文句を言うだけあって腕の方は期待以上だった。
1年目、22本塁打、打率・279。2年目には33ホーマーを打った。しかも、守備も水準以上だった。
青田昇さんが監督に就任したのは、シピン2年目の1972(S47)年だが、そのころはスター選手になっていた。
彼がモミあげからアゴにかけてヒゲを生やし始めたのはそのころだ。ヤングに受けて人気はいよいよ増すばかりだった。
青田監督がそのヒゲを見て、「こりゃライオン丸というところやな」と、言ったのがたちまちマスコミに取り上げられるなど、シピンとって、そこが大リーグの世界ではなかっただけで、収入といい人気といい、いわば極楽時代だった。
だが、「好事魔多し」の例え通り、いいことが続くときは思わぬ落とし穴がある。女性問題に巻き込まれたのはこの頃だった。
ある日、シピンが、「ちょっと話がある」と実に深刻な顔でやって来た。何事かと思ったら、「女に子供ができた」と脅されていると言う。
これには慌てた。年俸とかバットとかで文句を言われるならどうということもない。
しかし、女性とのトラブルなど、私には苦手中の苦手だ。取りあえず事情を聞いた。
遠征の帰路に機中で知り合った女性と付き合っているうちに、子供ができたという。
「ちゃんと確かめたのか」と聞くと、「いや、男とやって来てそう言ったのだ」と、しょんぼりしている。
よくある話だ。有名人が女とつきあっているときに、突然、『オレが亭主だ』などと言って男が現れる。
どうせ金欲しさにやって来たのだろうと思ったが、シピンがそういう関係を持ってしまった以上、あっさり片付くとは思えない。
それにマスコミに漏れて、スポーツ紙や週刊誌に書き立てられては、マイナスこそあれプラスになることなど一つもない。
私は思い余ってボイヤーに相談した。黙って話を聞いていたボイヤーは、少しも慌てず、「わかった。その男と女をオレのところへ連れてこい」と言った。
シピンにその旨を伝え、数日して問題の2人が来た。男は思ったより若く、せいぜい22、3歳くらいで、渋谷あたりで遊んでいる不良仲間といった感じだった。
この若い男にボイヤーが言った言葉は、いまも私の頭にはっきり残っている。
「子供が何人できたか知らんが、何人でもいい、オレのところへ連れてこい。ぜんぶ養子にして引き取ってオレが面倒を見てやる」
相手は一瞬、アッというような顔をした。ボイヤーの貫禄に圧倒され、「また来る」と言って引き揚げた。
それからしばらくして、再び私のところへやって来たが、「このことは今後、一切関わるつもりはない」とはねつけると、それから来なくなった。
この種の問題が再び起きないという保証はなかった。遊びのつもりなら、そのたびに金を渡しておくべきなのだ。それをシピンはやらなかった。
「必ず金を払っておけ。そうすれば問題が起きても処理しやすいのだ」と何度か言ったが、私の話に耳を傾けなかった。
このあたりからシピンの私生活が乱れ始めた。どういうきっかけかは知らないが、芸能人と夜遊びに熱中するようになった。
そんな生活を送っても、本業ではよく働いた。なんだかんだ言いながら、大洋がシピンのいた間、新外国人選手を獲らずに済んだのだから、功績は決して小さくなかった。
シピンが彼らとの“遊び”を覚えたことを知った大洋は、もうこれ以上チームには置けないと判断し、切ることにした。
そのころ、巨人がシピンを欲しがっていた。先方が特に質問しないのにこちらからわざわざ事情説明をすることはない。
大洋だって、シピンが実際に芸能人や彼らの取り巻きとどんな遊びをしているのか、ハッキリとした事実をつかんでいたわけではなかった。
これもビジネスなのだと、巨人との間にトレード話が持ち上がったとき、1500万円のトレードマネーで話を決めた。この金額を知ったときのシピンのがっかりした顔といったらなかった。
もともと、「巨人に行きたい」などと言っていたのだから、本当はうれしいはずなのだが金額が安すぎた。
「オレはそれくらいの値打ちしかない選手か」と不満そうだったが、巨人移籍後の78年(S53)、打率・315、16本塁打を打ち、シーズン後の契約では複数年契約を結んだ。しかし、腰を痛めて巨人では3年間働いただけでアメリカへ帰った。
いま思えば、大リーガーにはなれなかったものの、シピンは野球選手として人気も金も手にして故郷へ帰った。人生の1ページとしては、十分に満足できたと思う。
しかしそれ以上、幸せだったのは、巨人に入団後、ジゼル・ポンザという19歳の女性と、長嶋茂雄さんを介添え役として結婚式を挙げたことだ。
マリリー前夫人と別れてから2、3年後だったと記憶するが、ジゼル夫人とは気が合うのか、シピンも大人になったのか。2人の子供に恵まれた。
帰国後のシピンは、「バッティングセンターを開きたい」という。そこで大洋時代のシピンの姿が入ったポスターなどを送ったが、うまくいかなかったらしい。
不動産業にも手をつけたが、やはり商売は苦手らしく、92年(平成4)の暮れ、「日本でオレをバッティング・コーチに使ってくれる球団はないか」と言ってきた。そんなチームはなかった。
シピンは十分に活躍したが、それ以上に私の寿命を縮めた。彼が私に残した最大の教訓は、「外国人選手を獲るときは、家族関係、性格など十分に調べる必要あり」だった。
実はシピン、家族関係を私にほとんど話さなかった。
あるとき、「これがオレのオヤジだ」と言って1枚の写真を見せてくれた。私に心を許すようになってからのことだ。
写真にはシピンと父親が並んで写っている。父親の顔を見て、ハッと思った。黒人と言っていいほど色が黒かった。父親はフィリピン系アメリカ人だった。シピンが白人のような肌の色をしているのは、ポルトガル人だった母親の血を引いていたからだ。
そのことが彼の少年時代にどんな影を落としたのか、私にはわからない。けれども、多民族国家とはいえ、アメリカのプロ野球界にまったく人種差別の感情が存在しないとは言えない。
鋭すぎるほどの感性を持つシピンが、このことで苦しんだ時期が続いたことは私にも想像できる。
彼が異常なほどに大リーガーへの夢をかき立て、成功者への道にこだわり続けたのも、抑圧された心の屈折がバネになり、激しく駆り立てていたのかもしれない。
「アメリカン・ドリーム」この言葉を、写真を見せられたときほど生々しく実感したことはなかった。=おわり
(デイリースポーツMLB解説委員)