郷に入れば郷に従えの落とし穴(下)
キャンプが始まった頃の日本のスポーツ紙の報道を思い浮かべていただきたい。
例えば、いきなり場外へホームランを打ったりする。監督やコーチも、「やはり評判通りのバッターだ。これなら35本堅いね」などと言う。
翌日の新聞にこの談話がドカーンと出る。彼らは新聞の報道には極めて敏感だ。
自分の写真が大きく扱われているのを見れば、必ず、「どんなことが書いてあるのか」と、聞きに来る。
話をしてやると、「ウーン」と、困惑したような顔をする。
体はまだできていないが、スピードもキレもないバッティング投手の高めの速球を1、2本スタンドに放り込んだくらいで、なぜ、こんなふうに見るのか、というのである。
このあたりはいくら事情を説明しても、なかなかわかってもらえない。
かくて彼らは必要以上に責任を感じ、緊張する。公式戦に入って、ヒットは打っても、それほど注目されないのに、ホームランを打つとガラッと扱いが変わる。
「日本ではとにかくホームランを打たなきゃダメだよ」という、元在日外国人選手の話も聞いてきている。
せっかく調子が出かかったというのに、長打を狙うために打撃フォームを崩し、それでますますリキみ、不振の谷へ落ち込んでしまう選手をずいぶん見てきた。
そういう微妙な心理の揺れというのは、日本のサラリーマンの転勤にも似たところがある。
転任をなんとも思わず、むしろ未知の土地への好奇心の方が強くて、着任してもバリバリ働く社員、ちょっとフィーリングが合わない土地柄へ行くと、まるで世界の果てに追いやられたような失望感を持ってしまう社員、いろいろあるというが、外国人選手についても同じことが言える。
ある黒人選手はホテルの大浴場へ日本選手と一緒に入り、「こんないい気分になったのは初めてだ」と、たちまち日本ビイキになった。
白人社会ではあり得ないのだ。旅先のちょっとしたことが印象を何倍にも膨らませてしまう体験は、我々日本人でも旅をした人にはわかるはずだ。
彼らは旅人のようなものだ。来日したころは、なおさらその気分が強い。風俗習慣に慣れ、仕事のリズムを覚えて初めて安心して自己主張ができるようになる。
いきなり過大な期待を背負わされたり、急激な環境の変化にあえば、本能的に拒否反応を示すのはムリもない話なのだ。
昭和59年(1984年)、近鉄にドン・マネーという白人の選手が入団した。
アメリカでは大リーグのフィリーズとブルワーズで活躍した内野手の逸材だったが、その後、近鉄へやって来た。
当時、私たち外国人スカウトは、「よく獲れたなあ」と、密かに感心していたほど、いい選手だった。
ところが、入団してしばらくすると、突然「もう帰る」と言い出し、とうとう帰国してしまった。
彼を怒らせたのは、ホームグラウンドのロッカー、トイレの不備だった。どんな設備だったかはよく知らないが、近鉄の選手すらこぼしていたというから、あまりいい状態ではなかったのだろう。
「こんなところでは、野球はできない」というのが、マネーの言い分だった。
日本人選手なら、“汚ないな”ぐらいで済ましてしまうかもしれないが、仮にも大リーグで主力を打った選手である。
一度ご覧になるとわかるのだが、アメリカの大リーグ球場の施設は、日本とは比べものにならないほど整っている。
そういう環境で野球をやってきた選手にはそれが当たり前という気分である。
そこで育ったプライドは、われわれの想像以上のものがある。「郷に入れば郷に従え」と、我々はよく言う。
これは一つの知恵である。しかし、「新しく入郷したものには、前の郷の生活を配慮することも忘れるな」という言葉をつけ加えてほしい。
そうでなければ、知らぬうちに仲間外れという心理が集団の中に生まれる恐れがある。
野球をやる上での考え方や生活習慣が異なるのは、決して外国人選手の責任ではないのだ。(本紙MLB解説委員)
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牛込惟浩(うしごめ・ただひろ)1936年5月26日生まれ、78歳。東京都出身。早稲田大学を経て64年、大洋ホエールズに入団。渉外担当としてボイヤー、シピン、ポンセ、ローズなど日本球界で大活躍した助っ人たちを次々と獲得し、その確かな眼力でメジャー球界から「タッド」の愛称で親しまれた。2000年に横浜ベイスターズを退団。現在はデイリースポーツMLB解説委員。