恐妻家・ポンセ(上)

 「日本は天国」とばかり有頂天になって辞めなければならなくなった選手もいる。

 これから紹介するカルロス・アントニオ・ポンセだ。

 ポンセの大洋(現DeNA)入団は1986(昭和61)年で、5年間働いて、通算打率2割9分6厘、119本塁打、389打点である。

 本塁打も最高の35本を含めて4年連続20本以上打っているが、なんといっても、走者を置いての勝負強いバッティングは光った。

 1年目の105打点は1位のバースにわずか4打点差だった。

 そして2年目に98打点、3年目には102打点(2年連続1位)、この3年目は33本塁打でホームランキングになっている。

 ポンセは、スペイン系のプエルトリコ人である。血筋は正直なもので、情熱的で明るく、そして大変な恐妻家だった。

 大洋入りする前年、21試合ほど大リーグのミルウォーキーでプレーしているが、あとはほとんどマイナーで過ごしていた。

 彼がどんな暮らしをしていたか。86年2月に初めて日本の土を踏んだとき、ひと目で安物とわかるヨレヨレの背広を着ていたことでもわかる。

 しかし、性格は明るいし、体もがっちりしている。「よし、こういう選手はハングリー精神が旺盛に違いない。きっと働くぞ」と、長年の経験でそう感じた。

 事実、アメリカで会ったときとは別人のような、キリッとした顔つきだった。ポンセの場合、初めは彼を目当てに渡米したわけではなかった。

 86年、正月の仕事始めに出社したとき、近藤貞雄監督に突然「レオンを自由契約にしてほしい」と、告げられた。

 レオンをクビにするとは、新しい外国人が必要ということである。前年の暮れに年俸更改や補強などほぼ終わっている。

 今ごろ急に外国人選手を獲ってこい、と言われても、おいそれというわけにはいかない。「どうしても使えないのですか」と尋ねたところ、「併殺打が多すぎる」という答えが返ってきた。

 3年前にロッテから移ってきた選手だが、まだ使えるのではないかと思ったが、データにはやはりそういったマイナス面が表れていたのであろう。

 とにかく、それから数日間、夜もほとんど寝ずに(時差の関係で)アメリカへ電話をかけまくった。しかし「今ごろ、急に言われても」という返事がほとんどだった。

 そのとき、ふと思い出したのが、2年前に渡米してアリゾナ州ツーソンで行われていた3Aチームの試合を見たときのことだった。

 「これはいけそうだ」と見て写真を撮り、経歴を調べた好選手が3人いた。

 その中の1人、特に注目した男のことを思い出したのだ。それがポンセだった。「そうだ、あのポンセがいい」と、とっさに判断し、親チームのブルワーズの担当者に電話をかけた。

 「本気で獲る気なら考えてもいい」という返事だ。「むろん、本気だ。ただ、その前に一度テストさせてほしい」と頼み、これもOKをとった。

 契約のために重松省三スカウトとアメリカへ飛び、UCLA(カリフォルニア大ロサンゼルス校)のグラウンドを借りていろいろなテストをした。

 バッティングもなかなかいいし、肩も強い。さっそく契約したのだが、思ったより年俸もトレードマネーも安かった。

 「われわれのチームは2月中旬までは、本拠地横浜で春季キャンプを張る。それまでに来てくれ」と、約束して帰国した。

 ポンセがヨレヨレの背広で来日したのは10日すぎで、さっそく練習させてみたところ、ポンポンとスタンドに打ち込む。これなら使えると三塁手を予定したのだが、ポンセは指が短く、素早いモーションで一塁へ投げると、どうもコントロールが良くない。

 それではと右翼を守らせたところ、水を得た魚のようにイキイキと動く。こうして5年間、ポンセは大洋の主力打者として大いに活躍してくれたのだが、年俸は上がる。成績はいいということで、次第に態度が大きくなった。(デイリースポーツMLB解説委員・牛込惟浩)

  ◇  ◇

 牛込惟浩(うしごめ・ただひろ)1936年5月26日生まれ、78歳。東京都出身。早稲田大学を経て64年、大洋ホエールズに入団。渉外担当としてボイヤー、シピン、ポンセ、ローズなど日本球界で大活躍した助っ人たちを次々と獲得し、その確かな眼力でメジャー球界から「タッド」の愛称で親しまれた。2000年に横浜ベイスターズを退団。現在はデイリースポーツMLB解説委員。

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