アメリカ留学で聖人クレスと再会(中)
1986年。私は一度帰国して、6月になって再び渡米した。さらに帰国して、2カ月ほど日本にいただけで、また渡米した。
この年の渡米は3回にわたった。
マイケル・クレスニック※(通称クレス)に連絡を取った。すぐに車でやって来た。
大きなキャンピングカーだった。「オレの家さ」
数日後、このキャンピングカーで金を掘っている場所に行った。ビュートを出て舗装をしていない道を約1時間ほど走った。
「ここから20分ほど歩くんだ」。空は高く、澄んでいた。
そこは周囲を山に囲まれた小高い台地で、近くをきれいな水が流れていた。
「ロッキー山脈からの水だ。だれも来ない。ここに金がいくらかでも残っていることを知らないんだ」
彼はシャベルで土を掘り、それをフライパンに入れて、川に沈めた。土が流されたフライパンの中に、キラリと光るものがあった。
「これが金さ」
私は、「1日中やって、どれくらい採れる」と聞いた。
「今までの最高は1日で5000ドルだった」
当時の日本円では60万円を超えた。私の奥の4本の金歯はその時、彼がお土産にくれた金で作ったものだ。
その場所は、まるで人気のない巨大な空間だった。私なら、孤独感に耐え切れず、気が変になるだろう。
その時、10メートルほど離れた場所に、1匹の野犬がいた。大型犬で、目つきが鋭かった。
「あの犬か。オレの仲間というか。ここでのただ一人の友人かな」
クレスがここに来た時、どこからともなく現れたこの犬はクレスに牙をむいた。大型のナイフを身につけていたが、ある月夜の晩、ふと気づくと犬がすぐ近くまで来ていた。
とっさにナイフに手をかけたが、犬はクレスをじっと見つめるだけだった。
「オレはしゃがみ込んで、お前も一人ぼっち、オレも一人ぼっち。一人ぼっち同士が広い山の中で会った。友だちになろうぜ」
野犬がクレスに牙をむけなくなったのも、この大きな自然の中で、“ともに生きてゆくにふさわしい仲間”として受け入れられたからに違いない。
私は大ショックを受けた。
会話とは人と人との間で成立するものだと思い続けてきた。
英会話を勉強し、初めてアメリカ人に通じた時のうれしさは今でも忘れない。
しかし、その喜びはプラモデルを一つの形に作り上げたような満足感に似ていた。
いま思えば、言葉の半分ほども、私の心は相手に通じていなかったと思う。『オレは大変な落とし物をしてきた』というのが、その時の私の衝撃だった。
クレスは独身だった。私は「なぜ結婚しないのだ」と聞いた。
彼はしゃがみ込み、ナイフの先で地面をかきながら、「Kさん…」。ポツリと言った。
アッと思った。大洋(現DeNA)がX市に遠征に行ったとき、宿舎で働いていた女性だ。当時20歳くらいで、宿舎のオーナーの親戚筋だった。このKさんがクレスに気を配っていたし、クレスがKさんを見る目も熱っぽかった。
大洋がX市から次の遠征地へ移動の際、クレスが宿舎にバットケースを忘れた。
私はすぐに宿舎に電話を入れ、Kさんに聞いた。確かにバットケースが一つ、残っていた。
数時間後、Kさんが額に汗を浮かべながら、バットケースを届けた。この時の2人の様子には、客と宿舎の人の間を超えたものがあった。
なぜ、Kさんの名前が出てきたのか。いまだにKさんの面影が脳裏から消えないのか、忘れられないほどの傷を負ったのか。クレスの別な一面を見た思いだった。
重い空気が私とクレスを包んだ。それを振り払うようにクレスは、こう言った。
「なあ、ウシよ、オレの夢は将来だれかいい女と結婚し、子供を作り、庭に置いたロッキング・チェアに揺られながら子供たちに、パパが日本に行った時、ウシゴメという友人がいてなあ…と、そんな話を聞かせることだ」
クレスはすでに60歳を過ぎていた。「じゃ、まだ結婚するつもりなんだな」。からかい半分に言うと、クレスは真剣な顔つきで、「ああ、もちろんだとも」と、遠くを見る目で言った。
(デイリースポーツMLB解説委員・牛込惟浩)
※60年~62年ブリュワーズを経て、63年6月に来日。テストを受けて大洋(現DeNA)に入団。64年36本塁打、89打点をマーク。66年近鉄に移籍、同年一度やめて、67年シーズン途中から阪神に移籍した。◇ ◇
牛込惟浩(うしごめ・ただひろ)1936年5月26日生まれ、79歳。東京都出身。早稲田大学を経て64年、大洋ホエールズに入団。渉外担当としてボイヤー、シピン、ポンセ、ローズなど日本球界で大活躍した助っ人たちを次々と獲得し、その確かな眼力でメジャー球界から「タッド」の愛称で親しまれた。2000年に横浜ベイスターズを退団。現在はデイリースポーツMLB解説委員。